華道専慶流小史
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「立華」は元禄以降しだいに衰微の道をたどりますが、これにかわって文化、文政の頃より、流麗な生花(せいか)が生まれ、庶民の間にもひろく浸透していきます。 天保七年二月十三日、十三代専慶が京都円山の料亭弥阿弥(やあみ)で催した大花会には、立華とともに多数の生花が出品され、豪華をきわめた。このときの喜びを専慶は次のように詠んでいる。「ときしらぬ花は今日こそ宿にあり、花にしののめ花に暮れゆく」 この花会に出品した中から、すぐれた立華十数瓶を彩色図録した巻き物(家元蔵)も残されています。 安政の初め頃、京洛の各所に戦火が起こって当代家元邸もまたたく間に焼失し、いけばなは他の芸道とともに退廃化します。 十三代専慶は戦火をのがれ、伝来の品々をもって滋賀県雄琴村の門弟宅に一時身を寄せ、不遇な晩年を送る。さらに死後、桑原家に子孫がなく、惜しく一時絶家。 明治元年十月、松声軒慶翁が同門の総意により推挙され、門弟相続として十四代の家門を正式に縦承し、これまで茶道香道とともに影をひそめていたいけばなの復興に努める。 明治三十五年三月、先々代松声軒西阪専慶が十五代を継承し、さらに一段と広く流名を高め、家元の基礎を確立する。 大正十五年五月、先代松声軒西阪専慶が十六代家元を継承する。 昭和二年三月、これまで桑原専慶流と称していたのを、「桑原」を廃して単に「専慶流」と流名を改める。 同時にこれまでの立華、生花のほかに、時代に即した盛花、投入、小品花などの新しい感覚をとり入れた諸様式を創始、制定。 昭和五十二年三月、現家元西阪専慶(筆者慶眞の兄)が十七代家元を継承し、現在は長男保則の活動もめざましく、さらなる日本美の創造に傾注、いけばな普及に全力投球しているのです。 (要約はWikipediaに掲載。検索で「専慶流」を入力して下さい。) |