「人を見たら泥棒と思え」「信じる者は救われる」。誰もが知っているこの二つの言葉。前者は、安易に人を信じてはいけない、後者は、信じる事が大切だと…まるで裏と表の様な言葉。その誕生の背景には、それぞれ信じるにはあまりにも無防備な社会が、また、懐疑心に満ち、真実を見失ってしまう様な社会が垣間見えるのだが。
人を信じて疑わない。それが隣人、知人、親兄弟であれば当然のこと。そう思われて来た社会が、いつの間にか変わってしまっている。変わってはいけない、変わるはずの無い、誰もが生まれながらに内在しているはずの人の心を、自らの手で崩壊させてしまったのが今の日本の現状なのである。何かが間違っている、何かが狂っている…そう思いながらどうする事も出来ず、とりあえず我が身を守ろうとする思い、自己防御の姿勢が「人を見たら…」なのかも知れない。信じて裏切られるよりも、信じる事を捨て、我が身の安全を確保するのが一番と…。そんな思いが、いつしか「自分だけ良ければ」と言う身勝手な人を増やし、人と人の心をどんどん引き離す。同じ空間を共有し、持ちつ持たれつ、互いに助け合い支えあって生きていこうとするこれまでの素朴な道を、自ら遠ざけてしまった。災いからの逃避が、そのまま人を孤立化ヘと向わせたのである。
最近の若者のある手記に、こんな事が…。裏切られた時の恐怖を思うと、信じる事が怖い。今迄仲間だと信じていた友人から突然いじめの対象にされてしまった。自分にどのような理由が有るのか、全く分からないまま、昨日とは違った今日が始まってしまった。明日からの恐怖を思えば、死を選ぶ方が楽だから…。
人が人に対して恐怖心を持つ。これは共同生活を営む人間属にとって種族の絶滅を暗示する。こんな世相に変えた要因は幾つか考えられるが、ひとつに自分の本当の思いを相手に伝えられないでいることがあげられる。それは、言葉を発する自分自身と、言葉を受け止める相手の心に、互いの立場を尊重し、理解しようとする思いやりが欠如したからに他ならない。では、その思いやり、人を信じる事の大切さを、誰がどのようにして伝えれば良いのだろう。
本当に伝えたい、本当に受け止める…、そこには信頼関係が不可欠で、心を開かなければ何の進歩も発展も期待出来ない。私たちは、花を通して、まるで違った空間に生活する者同士が同じ時を過す機会を与えられている。技術や感性を通して伝えるのは、或いは、受け止めたいのは、その技術、形だけではなく、時を超え、繋がれて来た花を愛する優しさ、自然を愛する広い心、思いやりのある心、を広く分かちあう事でなくてはならない。
華道専慶流 西阪慶眞