秋を迎えて、ふと、あの神社の境内にある「清めの水」は満たされたのだろうかと、気になった。
あれは、昨年の夏、夕方のテレビニュースから知った出来事。海水浴場の近くにある神社の境内が、軒並み荒らされていると言う事であった。そしてこの夏その追跡レポートを耳にした。
手や口をすすぎ、身を浄めるその「清めの水」を、参拝客のある早朝にのみ水を満たし、その後抜いてしまうと言うものだ。「清めの水」本来の意味を思うと、水を空にしたくないのは言うまでもない。何故こんなことに…神社側の対応も苦渋の選択であった。
境内が、夏に荒らされるその理由は、海水浴にきた人達が、簡易シャワーの不足から、境内に侵入?。この「清めの水」で、ひしゃくを使い、水浴びをするのだ。体や履物に付いた砂、塩分を洗い流すだけでなく近年は更にエスカレート。キャンプ時の洗い物、朝夕の洗顔、水着の洗濯、子供を中に座らせて水浴び…想像を絶する行為が次から次へと。あげくの果てに注意を呼び掛けた信者に対して暴言を…。若い者ならともかく、ことの意味を教え、伝えていかなければならない立場にある中年を過ぎた人達の言動なのだから本当に情けなくなる。
現代は「常識」と言う言葉が意味を持たなくなったといわれる。善し悪しの判断基準を事あるごとに言い聞かせ、語り継いできた親や先生。今の大人達は少なからずともそのような教育を受けてきたはずであり、それをルールとして遵守してきたはず。そのような中で、家庭に飾られたいけばなも情操教育面で多大の役割を果たしてきた。
常識崩壊の原因は幾つか列記する事が出来るが、私はその要因を外にだけ求めるのではなく、とくに家庭内でのあり方を見直す謙虚さこそが第一ではないかと思うのだが。
個人の価値観、物の見方、捕らえ方を批判しようとは思わない。しかし、自分さえ良ければの感覚で、人の神聖な心を踏みにじる事は、常識以前の「人間」としての根幹にかかわること。人は一人で生きているのではない。集団共栄社会に生活する以上、自分の都合だけの判断や、他人の生きる空間にまで影響を与える事は許されるべきではない。もう一度、自分自身を振返り、背筋を伸ばし、人生にゆとりを取り戻す努力を考えるべきであろう。それこそ健全な明日の日本の姿に反映されるのだから。
寒桜について
園芸種の一種で四季咲きの桜。秋深まる11月頃から咲き始め、12月頃まで鑑賞出来る。春にも開花するが、花数は少ない。幹はやや細い。いけばなの扱いでは花と幹に焦点をしぼり、素朴に季節感を抽出させる。配材はやや控えめにあわせます。盛花では菊としゃが。菊とねこじゃらし。生花の作例に何か添えるとすれば管菊、又は小菊程度をあっさりと。