「そこ迄しなくても…」と思うでしょうか。それとも今風に云えば「そんなの勝手、点数稼ぎに過ぎない」とでも思うのかも知れませんが…。
二千年の一月、新学期を迎えたある高校の学校行事の中で起こった小さな出来事。毎年恒例の、始業前の寒稽古に始まる三学期のスタート。午前六時半の集合に、生徒の大半が夜明け前の月や星の輝く空の下を、始発電車を乗り継いで登校。稽古初日、小雨の中を生徒達は走り出した。雨はやがて本降りに。参加者全員がずぶ濡れになり走り終えて戻ってきた校門の前に、スタートを見送った校長が、傘もささず雨に濡れながら皆の帰りを待つ姿がそこにあった。高齢者であり、昨年入院生活も…。そんな校長が「走っている生徒も、この雨に濡れているのだから…」と。この姿を見たある生徒は、言葉にならない思いで、胸が熱くなったと感想を述べる。
優しさ、思いやり…現代っ子の彼には無縁の様な言葉。しかし校長のその姿に接した時、抵抗なく、優しさ、思いやりを感じ、やがてその思いが感謝する心に変わっていったと云うのです。三年目、まもなく迎える卒業を前にして「今、始めて校長を身近に、人の心の暖かさを感じ、素直に敬う気持が持てた」と云うのです。過ぎた時間の中で、校長の多くの話を聞き流してきた事を悔やんだと云います。
古い時代の厳格な態度で教育を目ざす者と「今どきの若者」との間に流れた人間としての一瞬の交流、心のふれあい…。
今日の我が儘な生活空間の広がりは、共に荒んだ精神環境をも育んでしまった。今さえ良ければ、自分さえ良ければ…的な生き方は、今どきの若者では無く、今を生きる私達がつくり出した事。先の小さな事例は多くを語る言葉よりも、ささいな行動、真心が、人の心に語りかけ、人の心を動かした好例である。
今、花に向かい合う私達にとって、一輪の花との語らいも、これと同じなのです。一本の花に心を託し挿すその行為には、いける人の姿勢、心が投影されているのです。そして、今、手にする一輪の花は「私の為にある命ある一輪の花」であり、また生けられた花に出会う人の心に穏やかな空間、優しさを…。「何かを感じてもらえる一輪の花」となり得る一輪の花である事を忘れてはいけないのです。
華道専慶流 西阪慶眞