少年がバスを乗っ取る事件をおこしたり、金策に困って宝石商を襲い、挙げ句の果てにガソリンをまいて多数の店員を焼死させるなど、信じられない事が平気で行なわれる。少し前には京都山科の小学校校庭で、日中、見知らぬ男性にいきなり殺害された恐ろしい事件もまだ記憶に新しい。
独りで歩くにはあまりにも淋しく、危険な時代である。手を取り合っていないと何時流されるかも知れない。電線が、線路が何時なくなるかわからない時代に私たちは生きている。
日本人はとかく「合一」と言う欲求は根強く息づいている。なにかにすがっていたい、よりかかっていたい、仲間に加わっていたい、共に行動したいと言う合一欲求。それが、長い時代の村意識根性、日本の繁栄をも築いてきた。今もその欲求は各々の根底には強く働いているのだがあまりの激しい競争社会にその資質を発揮する場を見失ってしまってはいないだろうか。さらに拍車をかけているのは価値欲求の頭でっかち。本来、認めてほしいと云う欲求が成長に結びつかなければならない。認められ賞賛されるご褒美に向かって学び、努力するのだ。ところがこの価値欲求がエゴにかたよったため、とんでもなく低下したり、強すぎる方向へ走る。著しく低下した人は、自分に対し腐し、軽蔑し、自ら価値を下げてしまう。自分の価値を認めない、高めようとしないのである。だのに幸せを求めようとする。これはご飯が食べたいのに水でお腹を一杯にするようなもので、価値欲求に真剣に応えようとしていない姿なのである。自分の価値を認めるところにその能力を開発し高めることが出来る。この自分の価値を認め、それに応えることは幸せ(愛をつかむ上においてもっとも大切なこと)を意味する。
また、著しく強い人は、一人よがりにおちいり、孤独化する。価値欲求は感覚的には存在感として受け入れられるが、指導者はとくにこの価値欲求を正しく理解していないと失敗するのである。
成長は字のごとく大きく育ち、発展していく欲求である。これは、代を重ねて成長したいと願う心が働き、進化する。たくましく、有能な能力を後世に伝えたいと願う。良質な苗や種が生き残っていくのに似ている。感覚的には向上感であり、希望を与える。
この三っつの欲求、つまり、合一、価値、成長、のどれ一つ欠けても、また、未熟であっても、健全な生存は不可能で、ましてや幸せを望むのはほど遠い。バランス良くどう育てるか、受けとめるかであろう。物欲は物に執着させ、盲目とさせるが、人間の心に一様に潜在する三っつの欲求は、生きる根幹で、励みのよりどころ、真の愛を育むのである。
華道専慶流 西阪慶眞
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