「よその子でも 悪い事をしていたら 叱れますか?」と、二人の幼児を持つ母親に問われた。本当は、悪い事だと教える為には、悪い事をしたその場で、叱る事が一番よい方法だと分っていながら、叱れないと言うのである。叱る事によって、自分に、わが子に降り懸かるかも知れない災いを、思ってしまうからと。
“常識”と言う言葉の意味が、失われつつある現代社会。そんな社会の中にあっても 人が生きて行く上で決して忘れてはならないのは、最低限の物の善し悪しの判断ではないだろうか。善し悪し、それは、大人社会でも子供社会でも同じである。法律で決められた約束ごとだけでなく、もっと人の心のうちにあるはずの人間らしさ…思いやり、優しさ、労り…と言った部分での善し悪しが大切なのでは?
多くの人を巻き込んだ雪印事件。牛乳の普及を目指して数人の酪農家が立ち上がり、長い時間をかけ様々な人の手によって築き上げられてきた信頼、信用が、一瞬にして崩れ去った。どうしてこんなことに…と思わずにはいられない。当然被害が出て初めて知った会社関係者もいただろう。しかし、してはいけない事、しなければならなかった約束事を知っていながら見て見ぬ振りをしてきた人達、予測できる事態を無視して仕事に携わってきた多くの人達の存在は決して否定出来ない。それは、何故だったのか?
立場を自分の生活環境に置き換えて見ると、悪い事と知りながらそれを発言出来ない環境を作りあげてきたのは、私達自身かも知れない。正義感の喪失…。悪い事を悪いと言えない。正直に生きる姿を、まるで時代遅れ、時には化石の様な生き方と表現する人もいるらしい。そう、決して善し悪しの判断が出来なくなっているのでは無く、それを発言する勇気を持たないだけ。発言する事による代償が、そのまま自分の生活を脅かす形で戻って来ると予測される現代社会だから。
そんな自分を弁護するために、ともすれば、誰もがしているからと責任転化の形で開き直る…。政財界も、企業も、教育の現場も、一つの家庭の中にさえ、自分自身を守ると言う口実の元に、悪い事を悪いと言えない、善い事を善いと認めない環境が生じ、小さな一つの誤摩化しが、どんどん大きくなり多くの人を引き込み、気付いた時には、取り返しの付かない事に…。真実を伝える勇気の無さが、長年に渡りコツコツと積み上げてきた実績と、信用を一瞬の内に崩壊させてしまう。苦労を重ね、夢に向ってひとつひとつを作り上げてきた人々の人生までもが崩れて行く。一度失った信用を取り戻して行くのは、ゼロから作り上げて行く以上に困難な事。
善い事、悪い事を思った様に素直に言葉にして相手に伝える勇気があるだろうか。人任せでは無く、まず私達自身が善し悪しを発言する勇気を持たなくてはいけないのではと思うのだが。
華道専慶流 西阪慶眞
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