形ではなくいけた人の心や思い入れを美的に構成するのがいけばなであることは言うまでもありません。さらにそこには四季折々に綴るドラマや詩が、あるいは暮らしを豊かにするメッセージが託され、潤いや季節の妙を敏感に受け取る高い感性を培ってきたのです。
一本の枝を手にしてもその向きや傾き具合で千変万化に表情を変えます。枝ものなら、その剪定の仕方、つまり「枝とり」一つによっても素材がもつ語らいは大きく異なるため「素材を捉える目」がカギを握ることになります。ここがいけばなの最も難しい点でもありますが、その規範となっているのは「自然」そのもの。なかでも重要なのは「表裏の見分け」でしょう。
植物は太陽のあたる南や東の方向に枝を伸ばし、葉を広げます。つまり北や西から見る姿は裏であり、太陽があたる東や南から見る姿が表と云うことになります。また、下から眺めると葉はすべて裏側が見えていて、表は当然上からの眺めであることは誰もが容易に理解するところ。ところが実際素材を手にすると戸惑う事が多く、悩んだあげくに裏側を使っている人がとても多いのです。
どうしてこんな単純な事に間違いをおこすのでしょう。それは、自然がそれほど画一的でないところに落とし穴があるのです。込み合って茂る木々を思いうかべて下さい。南側に常緑の椿などが茂っているとします。北側に隣接する木は茂った椿の陰になり、日が当たりません。でも北側が空いていると南よりそちらの方が明るく、そのためこの木は北に枝を伸ばそうとします。一本の枝を取りあげてもこれと同じで、必ずしも南が明るいとは限らず、枝先と枝下でも光の射し込み方向が異なるのです。つまり一方向の向きに眺めても、表裏をあわせ持っている場合が多々あるのです。
「いけた作品が何故か煩雑に見える…」「スッキリしない…」。これはこのような自然事情をくみ取らずに(間違って)、枝の配分、枝の剪定をしたからなのです。それは素材との会話が不足していたとも云えるでしょう。会話は押しつけではありません。相手の立場にたって静かに聞こうとする姿勢や、思い込みを排除した素直な心と目が問われているのです。(つづく)
華道専慶流 西阪慶眞