何度目の桜との出会いだろう、日本人の心を代名詞にしたような桜の季節となった。他の花と愛で方の違いは「宴」であり、そこには昔から変わらない花見風景がひろがる。しかし、お花見は元来、豊作を祈念した行事であり、山から神を迎え共に飲食したのがおこりで、山見とも云うらしい。それにしても桜は国花であるだけでなく、花は気品高く、清楚で、爛漫と咲き競い、しかも散りぎわの良さは、実に日本の国民感情をよく反映した花である。
桜は古くから日本に自生しているが、人工交配も盛んに行われ、いけばな、文学、絵画等にも多数取りあげられているように、人は心から桜を愛で、常に傍に置いてきた。
しかし、近年、この木が伐採される傾向にある。毛虫が付きやすく、さらに大量に落ちる葉の掃除に非難が集中しているからだ。最近も京都のとある川沿いにある数百本もの桜並木がすべて伐採された。今までは「面倒見」のいい住民達の影の奉仕でささえられてきたのだが…。
「面倒」とはわずらわしいこと、厄介なことと云う意味。その逃げ出したくなるような面倒くさい事に、むしろ積極的に取り組んで来た地域住民達の「面倒見」。金銭などでは到底換算されることのない影の努力で守って来たのである。
面倒見とは心ある人の証明とも云える。反対に心ない人は何事に対しても「面倒くさい」と振り向きもしない人のことであろう。「核家族」を旗印に「何故私が親の面倒を…」と云うように何故?どうして私が?の時代。自分だけの事しか考えない社会に塗り替えられてしまっている。介護法なんて法律が出来たが、介護はまさに面倒見の代表であり、お金で買うものではない。心そのものなのである。私もそんなお金に換算した介護?を受けるのかと思うとぞっとする。
「やさしさ」の本質は面倒見にある。面倒見は本来わずらわしい事。できたら避けたいもの。いわゆる雑用と呼ばれるもののほとんどの仕事がこれにあてはまる。
花をいけたら当然守りをしてやらなければならない。それも鉢物と違い、根がないから常に状況把握が欠かせず、元気がなければ水切りをしたり環境を考慮してやる。花器の中の水の管理も欠かせない。しかし、それさえも「面倒」と云う。
面倒見が悪ければ必ず自身に返る事は今の社会を見ていれば一目瞭然。大勢に流されない現代人の忘れ物に直視し、平和な暮らしを確保したいもの。
華道専慶流 西阪慶眞