春から初夏にかけて少しずつ濃くなっていく木々の様は格別で、見飽きる事がない。訪れる度に表情を変えるため、これが同じ場所かと疑いたくなるほど。それは季節の移ろいとひと言で片づけるにはあまりにももったいない。それは意味深い何かを私達日本人の個々の心に投げかけてきた。
つい最近まで流れていた「壮健美茶」のCM画像。谷間の岩に腰を掛け、足をブラブラさせ爪先で水を蹴る、あのシーンは丁度今頃撮影したものだろう、梢の間から射し込む太陽の光が、周囲の緑を包み込み実に清しい空気感を創りだし、ゆったりした時間を否応なしに感じさせる。四季がもたらす日本ならではの情景である。
季節ものと言えば、先日ある社中が四国の山中で採取した自生の「ウド」を届けてくれた。貴重な今季ならではの自然もの。改めて数冊の本を引っ張り出し、青柳との味噌合え、天ぷら、おひたし、お酒と醤油だけの煎り煮付けなど五品が出来上がった。アクがきついので重曹で茹でるが、1〜2分で十分だった。いよいよ試食。ほんの少し苦みを覚えるが、それがまた格別の風味として口に広がり、硬いだろうと思っていた太い幹は繊維にパリパリ感があり、まさに贅沢な「五月の贈り物」だった。
旬とは野菜や魚など、出さかりの味のよい最高の時期と言う意味。それは味や香りだけではない、心の隅々にまで染み渡る様々な広がりを感じさせるのである。大袈裟かも知れないが季節感、風趣、日本の詩がよみがえり、彷彿とさせるのである。心休まる瞬間でもある。
しかし近年の食材流通の変化はそんな情緒や文化を日々の生活から遠ざけている。冷凍、冷蔵保存の進歩、栽培法の技術改革などもあいまって何時でも手に入るようになったからだ。日本の夏の代名詞、スイカでさえ今では真冬でも手に入れることが出来る。強烈な太陽をイメージさせる「ひまわり」も今では年中流通する。この事を便利、重宝と考える一面もないわけではないが、暮らしの中から「季節感」「時期」を麻痺させているのは否めない。
「四季の贈り物」を感じると言うことは心に響かせることであり、自然と共に歩む人生の中で、積み上げられた価値観、心象である。四季に恵まれた私達日本人だけが手にする高度な感性なのである。せめて季節の花材を手にしたら、若い人にもいけばなを通じ今季ならではの美の見どころを広く語り合いたいものである。
華道専慶流 西阪慶眞