「経験に勝るものは無し」という言葉がある。人は皆、誕生の瞬間から、それぞれの生まれてきた時代、生活環境等の中で様々な経験を積み重ねてきた。
経験には、共通した一般的な経験と、ほんの一部の人だけが体験する特殊な経験もある。思い出す事さえ拒否したくなる負の経験はともかくも、人は経験の積み重ねを新たなエネルギーに替え、今を彩り、明日を志向している。
経験をした人の言葉は、話すひと言に真実があり、重みが生じ、相手の心を動かす。また受け止める側も、真実であるからこそ、素直に耳を傾け、自分の立場に置き換えて考えもし、時には励まされ、自分を見つめ直す事ができる。経験の無い会話の中では全てが想像、空想、思いつき、時にはどこまでも身勝手な、わがままな言葉の行き来で終わってしまう。そこには現実味がなく、説得力はおろか、反感を買うことにもなりかねない。
そう考えると、人の痛みを、人の心を理解し、共に考えようとする時、どのくらい相手の身になって考えられるのかと言う事になる。同じ事で体験した人ならおそらくきめ細かな部分にまで共感し、かなり深い部分まで分かり合う事も可能となる。反面、自らが経験していない事象や心模様はどんなに理解しようとしても、想像の域を出ることはなく、共有することは不可能に近いと言える。
だからと言って全く話を聞かないでは社会が成立しない。分からないなりに、一方通行ではなく、わかろうとする努力、できる限り相手の立場に立って考えようとする双方の心が大切となる。だからこそ人生には幅広い知識、経験、謙虚さが問われるのである。
最近、女性職業欄の「家事」が取り沙汰されている。主婦が家の雑事をするのが当たり前と言う考えから、夫や子供も自分の事は自分でやる「自治」への移行提唱である。女性だけが料理をし、洗濯をするのではなく、家族が手分けしての共同作業。自分の事は自分でやる。服や下着の整理だって妻だけに押しつけない。風呂掃除だって最後の者が洗い流す。受験生だからと云って何もかも母親が周辺の世話をするのは、その時にしか経験できない貴重な機会を取り上げてしまうことになる。こうした開かれた自治、経験の解放はすでに若い家庭では徐々に実施されており、共通話題に花が咲き、和やかな時を過ごしている。分娩の現場にさえ夫が立ち会うことはめずらしいことではない。
聖域なき改革ではないが、私達年輩者は今日までの規制概念を洗い直す時期にさしかかっている。その第一歩が自治なのである。経験に幅を保たせ、痛みがわかる、話のわかる年寄りになるいいチャンスでもある。
華道専慶流 西阪慶眞