(万博公園にて)
拉致に学ぶ勝手論と自由
9月17日、小泉首相の歴史的な北朝鮮訪問が大きな波紋を広げている。中でも拉致疑惑の解明については様々な形で報道されているが、何故拉致されなくてはならなかったのか、どのようにして連行されたのか、拉致された後どんな生活を強いられていたのか、またその人達の生存は。疑問だらけのこの問題、長い年月事実であると言う確証も無いまま、愛する近親者が25年も待っていた心中は計り知れない。それなのに第一報は最悪状態の惨い宣告で、8名が数年前にすでに他界していたとは…血筋が引く。
社会は人と人との信頼関係で成り立っている。しかしこの度の事件は悲しい話だが、人間の間違った独占欲、支配欲、エゴを露骨に先行させた最も見にくいケースで、予想外の出来事と云えよう。
現代は自由が尊重される時代。奴隷解放、植民地解放、そして男女同権、宗教の自由、差別解放などなど、多方面に渡る制約が解かれ、人間としての生きる保証、人権が確立。何人も平等であり、自由が認められる社会へと生まれ変わって久しくなる。
長男に生まれたからと言っても家業を継ぐのは本人の選択であり、若い夫婦が家庭を持つときの性も二人の相談で自由な性を選ぶ事が認められる。不条理な制約は取り除かれ、個々の主張が広範囲に認められるようになった。しかし一方で「自由」の誤解や広義解釈に押し流され、何をしてもいい、意の向くままの行動がすべて認められると言う「勝手きまま」の同義語に置き換える危険をはらんでいる事を悟らなければいけない。
野球には野球のルールがあり、サッカーにはサッカーのルールがあるように暮らしには暮らしのルール、家庭には家庭のルールがあるのは当然。細かくは国家、地方、家庭によって多少の差異はあるものの、最低限の取り決め、約束事を守る事で、何人も安全で安心した暮らしが保証されているのです。
いけばなでも同様で、木ものと草ものを組み合わすとき、必ずしも木物が主材ではなく、草物が主材になる場合があったり、両者どちらもが主材であると言う考え方は今では決して珍しい事ではない。
美の原点を探り、素材のもつ個性、質感などを最大限に引き出す試行錯誤の鍛錬は人々の「共に生きる、生かされる」に共通し、自由が許された華道を通じた暮らしへの波及効用面はここにきて高く評価される。いけばなに接することで私たちの自由に隣接する「エゴ」や「勝手」を考えさせる機会を与え続けるからであり、自由に隠された暗黙の制約を肌で感じる感性は、それこそ私たちが快適に生きるルール。「形にあって形にでる」「無技巧の技巧」を提唱する専慶流の姿勢は各自の道でも大いに生かせてもらいたいもの。
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