今年は気候の乱れに、若葉の新緑や、他の花木との競演に結びつき、例年とは違った春の色合いを見せつけた桜。個人的には運良く沢山の桜に出会うことが出来た。しかも、今咲いたばかりの初々しい姿の時期に青空の下で出会えるなんて、こんな機会は過去何十年の間では覚えがない。しかも今年は急激に気温が昇がり、ボチボチではなく一気に咲いた事もあって、花びらに張りがあり、一輪一輪が実に生き生きした光彩を放ち、感動もひとしおであった。
数年前に行ったので…と足を止める人を見聞きすると「なんと可哀相な人か」と嘆きたくなる。植物は一年の気象状況に大きく左右されるため、姿、形は毎年異なるものである事を知らないのだ。ましてや当日の空模様によっても印象は大きく違い、同じ地の同じ桜であっても表情は一変する。農耕民族である我々の祖先はこの僅かな違いを敏感に察知する能力を身につけたことで、高度な文化を育み、心豊かに美意識を高めてきたことを再確認してもらいたいものである。
桜と云えば「ソメイヨシノ」が代表格だが、近年は枝垂れ桜、ボタン桜など交配品種に人気が集まる。これとは異なり原種と云われる「山桜」には野性的な趣があり、華やぎの中にも叙情的、文学的語らいを秘めている。国の名勝に指定されている三多気の桜は、奈良県と三重県の県境に位置した静かな山あいの村に威風堂々と佇む。高さ30メートルもあろうかと思われる苔むした古木が並び、村人はその姿を我が身に写して暮らしてきたのであろう、実にゆったりした時間がそこには広がる。山桜は花と葉が同時に出る。幼葉は赤みを帯び、花は白色。遠目では花の白と赤みの葉が混ざりあい、実に優しい色合いである。棚田には水が張られ、舞い落ちた花びらが浮かぶ…何時間いても飽きない光景、満開時に出会えた大地からの贈り物に身震いさえ覚えた。
縁は異なもの…なんて言いますが、日常何気なく用いるこの「縁」と言う言葉、その意味を調べると仏教思想の中から「ある運命になる巡り合わせ」とある。人の出会いの偶然も必然もいずれもが「縁」。「くされ縁」と言うのもあります。まあ、これは離れようとしても離れられない、切ろうとしても切ることの出来ない好ましくない関係を本来は意味するのですが…これも間違いなく縁。
縁と言う一見不可解な一つの出会いが人生に大きな意味を持つ。縁あって結ばれましたと報告する新婚さん、就職活動の中で縁あって採用が決まった新入社員などなど、当然その反対の状況も含めて全ての物事が「縁」の一言に結びつく。そう思えば、満たされた充実感ある人生は、どれだけ沢山の良い縁を結ぶかに掛かっているとも云えよう。人との間に結ぶ縁だけではなく、興味を持ち何かを学ぼうとするときそこに新しい未知な物との縁が結ばれる。じっと待っていても何も生まれない。殻に閉じこもらず、見栄を張らずに勇気を持って外へ、前に進んで、積極的に求める。これが人生でもある。人を磨くのは、書物や、黒板に向かって学ぶ事だけではない。人との関わりや自然とのなかで学ぶことの方が遙かに多いように思える。生きた会話の中にある真実が人に大きな興味を抱かせ、学びや美意識を養う。
五月病が出始める頃、マイナスの縁も必ずプラスになる事を信じ、山桜のようにたくましく、そして優しい日々を送りたいものである。
専慶流いけばな真樹会主宰 西阪慶眞