満員電車の内で「怖いよ〜」と泣きだす子に、抱き寄せながら「大丈夫だから」と答える親。「間もなく発車します」のアナウンスをよそに更に乗客を押し込もうとする駅員に、乗客の一人から「小さな子供が居ます!」の声。駅員に届かぬ声を聞いた周囲の人から人へ、次々とその言葉が駅員へ向けて届けられる。「大丈夫?こちらに来れば良い…」身動きもままならないギュウギュウ詰めの車内で、誰もが声を掛け合って好意的にその子の安全確保に動き出す。当然の事だと言えばそれまでだが、優しさや思いやりが問われる日々の中で、ホッと心温まる連携プレーに、人の心と云う温かさを読み取っていた。ところが、その同じ空間の中から「誰だか知らないが、音楽を聴くのは良いが、周囲に迷惑、音を下げろ!」と言う大きな声が飛び出した。何処からか聞こえる音楽、いっこうに音を下げる気配は無い。「無視してるのか!」の再度の怒鳴り声に、一触即発の空気が…辺りは異様な雰囲気に包まれた。
どちらも人への思いやりから発せられた言葉だが、周囲の受ける印象は、悲しいかな真逆の反応を押しつけ、ピーンと張りつめた無言の世界へ。
要領の悪い人、不器用な人…と言うが、根は良い人に違いないのだろうが、その表現の仕方は、まるで違った印象を与えてしまう事になる。音楽を聴いていた当の本人は、果たしてその音が周囲に漏れていた事に気づいていたのかどうか、案外聴き入っていて、何が起きているのかさえ知らずに居たのではないだろうか。それはともかく、とかく男は大声を張りあげたがる生きものであるが、その要因は「照れ隠し」であったり、「短気」が根底にあるように思える。それとも日々のストレスが頂点に達していたからなのだろうか。他人の振り見て我が身の反省である。 |
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先日、多忙な最中に飛び込み営業の電話が。「○○社の△△ですが、ご主人様はいらっしゃいますか?…」。反射的に「私がそうだが二度と掛けてくるな!」って怒鳴っていた。翌日、違う業者からのコール。昨日の反省から、用件だけは聞いてやろうと。少し年配声の相手は営業マンとは思えないしどろもどろの話しを始める。「要約を…」と催促すると、一層声を詰まらせ、途切れ途切れに。しかし、その懸命さが受話器からの一語一語に真実味を感じさせ、こちらもついつい聴く耳を。結局高価な買い物をしたわけだが、「彼なら騙されてもいい」と何処かで納得していた。数時間後、自宅に訪れた彼は電話の声そのものを形にしたような真面目顔で、商品への自信度を身体全体で表現していた。
思いを伝える手段に会話、文面、アートなど様々あるが、肝心なのは誠心誠意なのであろう。流ちょうな言葉、難しい文面、言い回しより、心の内から出てくる真実の言動こそが相手の心を揺るがすのだと思える。いけばなも同じ事が云え、綺麗に見せようとか、気取りはかえって花から見放される。ゆっくり時間をかけて花の内面を読み取り、それをいけ手が理解した時にこそ、自ずと優れたいけばながいけられるものなのです。弘法筆を選ばずとはまさにこの事であり、どのような素材にも独特の個性や良さはあるものです。その部分を見いだす作業こそ、相手を知り、相手を踊らす事が出来るのです。
今年も花に教わり、花に生かされる、そんないけばなライフを過ごしたいと思います。
華道専慶流 西阪慶眞
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