国民を代表する人達の間で、秋の連休について新たな提案が出されているらしい。五月のゴールデンウィークに対し十一月のシルバーウィークとも呼ばれる連休があるが、この飛び石連休をひとまとめに繋いでしまおうという事の様だ。当然、公の場での提案にはそれ相応の様々な理由があるのだろう。共働きの家庭が多くなり家族揃って過ごす時間が少なくなった、休日をまとめれば家族が一緒に居られる時間が増え、長期休暇を利用しての家族旅行など経済効果も増し…という事らしい。その案を耳にして何か違和感を感じるのは私だけだろうか。
そもそも年中行事とは何だろう。カレンダーの日付は、ただの数字の羅列ではなく、そこに「暦」と言う日々の生活に欠かす事の出来ない様々な情報を含んでいる。それは農耕民族として命を繋いで来た日本人にとって、自然との共存が全てであり、自然を敬い、自然の恵に感謝し自然と共に歴史を積み重ねてきた証である。また、長い歴史の中で築き上げられて来た伝統やしきたりと言った我が国独自の様々な良さを、絶える事無く今日まで伝え残して来た年中行事も少なくない。何気なく捉える一つの行事にも、そこには大きな意味があり、また、先達が培って来た生活の知恵が隠されている。
近年、ゆとりある生活を、親子、家族、隣人…の関係をもっと密に出来る様に、共有出来る様に…との配慮から、祭日の移動変更がたびたび行われて来た。果たしてそれが本来の目的達成へと繋がって行くのだろうか。今、大切にしなければならないのは崩壊しつつある人と人との穏やかな関係。
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その修復の為の一つの手段として、祭日の移動による長期休暇が有効で、それが引き金となって解消されて行くとでも言いたげである。しかし、自己中心的時間の消費は更に増し、生活圏内の小さな約束事、共同生活の大切な決まりを守ろう、それに向かって努力しようとする運動はあるものの、当たり前の事が軽視れては居ないだろうか。成人の日が一月十五日であった訳、体育の日が十月十日であった訳等々、多くの大切な歴史や、その本来の意味を絶やす事無く次の世代へと伝え繋いで行く大きな責任を持っているのだと言う事を忘れてはいないだろうか。
連休にしたからと言って全ての人が同じ様に、家族との大切な時間を過ごせるのではなく、価値ある時間を過ごせるのでもない。その陰で、これまで以上に辛い思いをしなくてはいけない子供達も沢山居るだろう。また、目標を見つけきれずに、自由をはき違えた者の無謀さを増大させる事にもならないだろうか。日々煩雑な生活の中に在って、心のゆとりを失いがちな現代人に休息は必要だが、何が良くて何が悪いかの基準は、全ての人に平等に、効果的にと言う事は難しい問題だろう。ただ、今、その代償に大切な意味ある日々が失われ、忘れられて行く事が悔やまれてならない。祝祭日も文化であり、安易に変更されるのは精神性にも直結、由々しき問題ではないだろうか。
華道専慶流 西阪慶眞
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