「春おこしの雨」…一雨ごとに花が目覚めて行くと言う意味の言葉だが、ラジオから流れて来たこの言葉に、ふと何とも言えぬ奥ゆかしさを感じた。同じように「木の芽雨」「木の芽風」は木の芽吹きを呼び覚ますと言う意味を持ち、お馴染みになっている「日向ぼっこ」や「小春日和」「十六夜」「蝉時雨」等にも、その言葉の中に凝縮された穏やかな自然の営みや、その風景が彷彿と伝わってくる思いになる。四季ある我が国ならではの味のある言葉である。しかし、悲しいかな、この様な我が国ならではの美しい響きの言葉もどんどん片隅に追いやられ、若者発信の短縮言葉が飛び交う現代社会…、嘆き悲しむだけではあまりにももったいない。
さて、言葉の様変わりも含めて、現代社会の縮図が電車の車中にある。車内は、昔の様に「袖すり合うも多少の縁」では無いが、乗り合わせたひと時の隣人…と言った様な穏やかな関係などは無縁。自分は自分、人は人。全ての人がそうでは無いとは云え、一昔前とは大違い。事もあろうに床に陣取って座り込む若者が居れば、人目も憚らず化粧を始める女性。羞恥心、常識と言う感性、あるいは他人への配慮など「♪関係ない、関係ない」。車窓の向こうに広がる景色に目を向け、季節の移ろいを感じ楽しんでいる人もいない。そればかりか、今では窓の向こうを好奇心たっぷりに眺める子も、興奮気味に騒ぐ子の姿も無く、当然人に向ける我が子の靴を気にしながら申し訳なさそうに周囲を気遣っている親の姿もない。確かに、かつての様な樹木あふれる自然風景とはゆかないが、それでも季節を感じる事も出来れば、変わりゆく街並をぼんやりと眺める事で緊張感を緩める事は可能なはずである。
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また、明らかに友人、知人との同乗にも関わらず、会話する様子も無い。では一体、皆は何をしているのか。携帯電話の普及によって以前は、携帯片手にメールの遣り取りをしているいる人が大半だったが、今ではメールは当然、携帯やゲーム機器でゲームに没頭している人、テレビを見ている人、ヘッドフォンを耳に音楽を聴いている人…。なかには読書をしている人もいるが、その形態も変わってきた。本では無く、これも機器の画面上で書物?を読むと言った形態へと変化している。年齢も、性別も、職業も関係なく、座っていても立っていても目線は手の中にあるコンパクトな機器へと向けられている。周囲にどんな人が居るのか等は、全く気にしている様子もない。優先座席でさえ、目の前に居るお年寄りや、体調の悪そうな人に気づきもしない。いや、時には見て見ぬ振りをしているのかも…と思いたくなることさえある。豊かな暮らしがもたらした子供部屋のある生活や、一人の独占空間を楽しめる機器の浸透が、早い自立と引き換えに協調性、ゆとりの欠如をもたらしているように思えてならない。一人に慣れた生活が、公共の場においても周囲への配慮まで気が回らず、自己中心的に慣らされていることにさえ気付かなくなっているのであろう。
人と共に生活している事を思い出し「京言葉」に代表される思いやりや当たり障りのないなんとも云えない温かい気遣いの空気は引き継いで行きたいもの。
華道専慶流 西阪慶眞
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