新春早々、国会議員までも巻き込んだUFO飛来や火星人存在の論争。子供では無く中高年の有識者と呼ばれる人達が目を輝かせて持論を語っている姿に、日頃の顔とは違った生き生きとした顔を見た。宇宙空間は、既に子供の夢物語やおとぎ話では無くなった。そればかりか宇宙旅行の申し込み受付が現実となり、その高額な旅費にも関わらず多くの予約が殺到、既に旅行に向けての説明会や無重力空間の体験等を実施していると言う。反射的に「格差社会」の四文字が脳裏に。確かに、夢を叶え、叶える為に惜しみない努力を積み重ね、その夢を現実にしたのだから、おめでとうと言ってあげる事が当然の事なのだろう。しかし、格差が生み出している命の重さのあまりにも大きい違いを考えると、素直に喜ぶ気にはなれない。前進の代償に何か大切な多くの物を犠牲に、或いは無視したエゴで支配してはいないだろうか。
二月には節分と言う行事がある。新しい季節を迎える為に邪気を払い無病息災を願っての豆まき等を行うが、この他にも我が国では正月に始まり一年を通し多くの行事やしきたりがある。ある催し会場の片隅で六十歳前後の数人の女性が「恵比寿講」の話をしていた。商売繁盛を願って一月と十月の二十日に恵比寿様を祭る行事なのだが、関東では自宅に恵比寿様を飾り、二匹の魚と、山盛りの豆ご飯、お金を供え…と言う形があるらしい。しかし、ほとんどの人が同地域、同世代にも関わらず「恵比寿講」と言う言葉も知らず、請われて説明していた婦人は、嫁に全てを教え、嫁いで来た翌年から恵比寿講に限らず昔ながらの全ての行事を欠かさず行っていると話していた。
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これこそ、今私達が真剣に考えなくてはならない事ではないだろうか。生活の中に溶け込んで営まれてきた所作などが持つ意味には深いものがある。面倒、無駄と云う前に、その心に目を向けるべきであろう。目まぐるしく変わり行く現代社会、文明の発展がもたらす快適な生活との引き替えに自然との共存から人を遠ざけ、大切な物(生身の心)を置き去りにしている様に思えてならない。科学物質を使ったしめ縄は、大気汚染を避ける為「ど(と)んど焼き」と言う正月の門松やしめ縄を燃やす行事は行えず、生活ゴミ同様に処分される現実にどうしても違和感を持つ。伝える事の難しさもある。しかし、だからと言って日本固有の精神を時代遅れ、無意味と一網打尽に抹消しては、伝統や文化は育たず、稀薄となるのは云うまでもない。過去に習う事が時代を後退させると言う事では無く、私達の心の原点を見直すきっかけにもなり、新たな発見に繋げる機会でもある。
先日「カレイが運んだ十五年前の手紙」と言うちょっと心温まるニュースがあった。小学校一年の時に手紙をつけて飛ばした風船が十五年の時を経て、学校から百キロ離れた海底から水揚げされたカレイの背中に着いていた。手紙の内容から本人へと手渡されたのだ。全ての偶然が、奇跡の様に思える出来事。一つの動作が様々な形で未来へと繋がっている証にならないだろうか。確かな事実の先にある未来。居心地良い未来は、誰でもない私達一人一人の現代の生活から、美を介在させた創意工夫で、暮らしの中に作り出すものなのであろう。
華道専慶流 西阪慶眞
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