まだ耳に新しい出来事、私達を守る為にと開発された最新鋭のイージス護衛艦と漁船衝突事故。連日様々な角度からの報道がされているが、どこかで、テレビや新聞の世界の中での出来事になってはいないだろうか。自身に降り掛からない現実は、何処まで行っても人事に過ぎない…そう思う事が当然なのだろうか。痛みを覚えない現実の中では、シュミレーションとして真剣に考えてみる事は困難なのだろうか。それ以前に、人の痛みを我が身に置き換えて考える事は難しいのだろうか。確かに責任の追及、原因究明は必要不可欠だが、失われた命の重さ、その人達に関わった多くの人の心の痛みを思いたい。それぞれが自分の立場の主張を、中にはそれを自分の利益の為に利用しようとする人達まで見え隠れする報道。再発防止策検討も必要だが、そのあまりの報道の大きさの陰になってしまっている命の重さを、感じずにはいられなかった。どんなに社会が変わっても、一つの命が辿る命の時は一度しかない。これだけは昔も今も、そして未来も変わらない。与えられた環境の中で、手探りでどんな命の時を過ごして行くのか、誰も予測の出来ない私達一人一人の人生。ただ、護衛艦の存在自体が、この国に生きる私達の命を守る為と言う大前提の上に存在している事も、人事としてでは無く受け止め無くてはいけない。
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目まぐるしい文明発達の中で、私達の生活は好むと好まざるに関わらず日々様々な変化を強いられている。その変化は単なる日常生活だけでは無く、精神的、心的部分までもが求められ、善し悪しの判断の猶予無くそれを受け入れる事に懸命になってしまっている様に思う。徒歩から車社会への移行は生活空間を大きく拡大、衛生管理や売り上げ効果を狙った過剰包装、快適な暮らしを目指した想像以上のサイクルで改良が加えられる電化製品…物質文化だけでは無く、地域社会における生活様式の変化、教育現場での教育方針のあり方、欧米化に伴い失われて行く日本独自の精神文化…誰でもない私達自身がその道を選択し、その為の開発をしてきたのです。そして今、その全てが地球の危機へと繋がってしまったのです。全ての出来事には、必ず原因と結果が。
予測のつかない出来事がいつ我が身に降り掛かっても不思議では無い、と言う現実感を誰もが持ちながら、それでも人は突然起こった出来事を前に、一様に「まさか我が身に降り掛かるなんて…」と思うのです。私達は、日々何気なく過ごしている事が、当然の事と勘違いしているのかも知れません。考えてみれば、何事も無く平凡な毎日ほど、奇跡に近い事なのかもしれません。世界を枠にした大きな政治、錯覚を回避させる小さな政治、これらを両立させる各自の裁量を問い直させた事件でもあった。
華道専慶流 西阪慶眞
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