「ご近所さん」の感覚がどんどん薄れて行く昨今。決して強いられて繋がれた人間関係ではなく、同じ生活空間に居る仲間意識は、日々顔を合わせれば挨拶に始まる自然な繋がりだった。当然のように交わす「おはよう」や、一言発す何気ない言葉は、身構え、意識した物ではない極々自然なモノであり、そこに知らず知らずの間に疎通を感じたものである。当然、時には意見が合わず喧嘩もあれば、無視と言う大人気無い状況も発生するのだが、現代人程根深い物では無く、わだかまりは一過性が多かったのでは無かったのか、と振り返る。また、「隣り組」の言葉に象徴される地域の繋がりは、何世代にも引き継がれて来たものだ。中には「変わり者」と言う特別な人も極まれには居たが、人と人が繋がる為に時間は要らない…と言った世相で支配されていたように思う。しかし、現代ではマンションや新興住宅地と言った多くの隣人が身近に住む生活空間にあっても、進んで関わろうとはしない。むしろ、煩わしい、自分の領域を侵されたく無い…等々自分本位の言い分に加え、忙し過ぎる社会背景に、関わるだけの心に余裕がないのかもしれない。しかし、それを言い訳に、希薄な人間関係しか結べ無い「つけ」が、世の中に様々な弊害と言う形で回って来ているように思えてならない。高齢化社会への移行速度は増すばかりだが、反比例して人の繋がりが冷めて行く現実は、何処か日本独自の「精神」が根底から崩れ落ちる様を見るようである。
ある年の暮れ、京で高齢女性の孤独死と言う事件があった。悲しく悲惨な事件だが「孤独死」も今や耳新しい驚くニュースではなくなって来ている。
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しかし、この事件には続きがある。この町では、朝になると軒先に赤い薔薇の造花が並び、夜には片付けられる。これは事件をきっかけに、お年寄りが多くなったご近所の安否を確認するための薔薇なのだ。軒先に薔薇が無ければ隣近所で声を掛け合い、助け合おうと言う思いから発案されたらしい。薔薇を通して地域住民の絆が強まり、町の見栄えも良くなったと好評のようだ。この記事に人を思いやる優しさが生み出した知恵の素晴らしさ、人との繋がりの大切さを改めて思った。どんなに時代が変わっても、決して人は一人で生き抜ける程、世の中甘くは無い。一人の力には限度があり、自分の力だけでは、補い切れない、どうする事も出来無い現実が待っているもの。強がらず、時には人の優しさに甘えることも必要で、また、反対に健康な人は力を貸せる温かい心を何時も持ち続けたいもの。
この記事にはまだ、続きがあった。この大切な薔薇を持ち去る不心得者が現れた…「花盗人は罪にはならないとは言うが、安否確認の意味を込めた花。大きな罪です」と発案者の一人は言うのだが、命の綱までいたずらする世相、どうにかならないものだろうか。
華道専慶流 西阪慶眞
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