若葉が眩しく青空に映える五月、新年度の始まりからひと月、新人達も着慣れぬ真新しいスーツや、制服がようやく落ち着いて見える様になって来た。新人研修等で、これから自分の成すべき事、新しい環境の中での自分のポジション等がそれなりに理解でき、夢や希望にただ胸膨らませているだけでは行かない現実に直面し、身の引き締まる思いになった頃では無いだろうか。どんな状況にあっても一人の人間として責任ある行動のもと、熱き夢を追い続けて貰いたいもの。
まだ子供が小学生だった頃だろうか、今週のクラス目標は「あいさつをしよう」だった事を思い出した。私達の生活の中で挨拶は改めて意識することなく、極自然に交わされるものと認識していたが、日常当たり前の事が何故目標に成るのか…とその当時は聞き流していた。しかし現代社会ではどうだろう、小学校どころか、企業、病院等様々な場所で目標として掲げられている。更に驚いたのは、住民の高齢化が進む200世帯を越えるような大型マンションの自治会の目標にまで…今や挨拶さえスムーズにできない社会となってしまったと言うのか。常識や基本以前の問題の様に思えて成らない。言葉にせずとも思いは伝わる…そんなに甘くは無い。日頃の何気ない挨拶が、人と人とを結ぶ糸口となり、その人となりを無意識の内に伝え、伝えられて初めて人の交わりが成り立って行く。訪問先でノックも無しにドアを開け、堂々と入って行く。当然挨拶もない。目指す相手以外は目に留まらないらしいが、失礼極まりない。互いが気持ち良く仕事をこなして行く為に、挨拶は最低限のマナー。こんな事を公然と取り上げること事態、情けないことだが、現実は想像を絶する程の有様だと云うから驚きである。
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ところで「なんちゃって制服」と言うのをご存知だろうか。2002年頃から流行りだしたもので、制服の無い女子高校生が、他校の制服そっくりの私服をコーディネートして通学するのがトレンドだと云う。本来制服は一般の人と区別したり、動きやすい、或いは校風を示すために制定したものだが、公立校での紺や黒のかた苦しさ、個性のなさに反発を浴び、徐々に制服廃止になった経緯がある。いわば学生側から選択した「制服」。以前と異なる点は、他人とは違う、さらに、束縛からの解放で、個性とファッションを楽しむことろだろうか。原宿には専門店もあり、年々売り上げを伸ばしている。しかし、私には、どうも納得のいかない部分がある。本来制服の持つ拘束(連帯感、規律、誇り)に様々な意味が込められていたからだ。決められた制服を身につける事で、身も心も引き締まり、人格形成に役立たせてもらいたい大人からのメッセージでもあった。個性美を大切にする事は重要な事だが、せめて、高校生あたりまでは「拘束」のなかで、真の「自由」を学ぶのは必要だろう。何もかもを曖昧にしている世相はこうした中でも育まれ、歪みを生じさせているのではないかと思えてならない。。
自由、個性尊重と言う意味、解釈、私達はどのような姿勢で捉えるべきなのか、再度問い直す時期でもある。
華道専慶流 西阪慶眞
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