里山(さとやま)ーこの言葉にはとても懐かしい温かい響きを感じます。大昔から、大切に守り育てて来た無くてはならない身近な「暮らしの自然」として存在してきたからでしょう。薪を集め火を焚いたり、田畑の肥料を得たり、山菜などの味覚をもらったり…そして、生活に欠かせない水の恩恵をもそこから受けていたのです。小川のせせらぎは小魚や沢蟹など多くの生き物を育み、人は森の動物だけでなく、高タンパク質源である魚を食す機会をも与えられていた。家屋の裏口には山から引いた水が24時間優しく注ぎ、水槽は野菜などの洗い場として、時にはスイカやお茶などを冷すのに重宝した。風呂や竃(かまど)の火は勿論裏山から持ち帰った木々を利用し、間伐材は割り木にして廂(ひさし)の下に大切に保管した。里山はそんなゆったりとした営みを、情緒を込めて提供していたのです。これが私達祖先の知恵が生み出した自然との上手なかかわり方で、日々の恩恵に感謝をし、持続・循環を軸にとても大切に見守り続けて来たのでした。しかし、近代化が進むに連れ、人の下す審判は「里山ノー」となり、村や山を棄て、都会生活へと舵をきったのです。あれから20〜30年が経ったのでしょうか、里山崩壊後の歪みは多岐にわたり表出、ここに来てようやく見直しが強く叫ばれるようになりました。
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「同じ野の 露にやつるる藤袴 あはれはかけよ かごとばかり」と、恋するひとに贈ったフジバカマも絶滅の危機を迎えていると云うありさま。いけばなで馴染みの「深山南天」「ナツハゼ」「アセビ」「芝栗」「藤」などは風趣や雅味を放出させる好材料であったが、今では名ばかりの素材が流通するだけで、近くの野山にはほとんどその姿は見いだせない。
私が花展などで使用する花材は極力自分で育てたものか、自ら野山で採取したものにこだわってきた。素材への思いをより深く刻み、燃焼させるためだ。幸い少し車を走らせれば緑は多く残されている地の利。ところが、環境の変化、素材の品質低下は、止まる所を知らない。ナツハゼやアセビなどは低木で、木漏れ日を浴びる大木の下や山道脇に繁殖するが、人が里山に入らなくなって山の生態、樹木の種類までが大幅に変わってしまった。初夏には可憐なササユリが咲き、甘い香りを放っていたあの空気感も当然崩壊し、木々は生い茂り、太陽の光は届かず、うっそうとしていて、山中に足を踏み入れるのを阻むかのように、里山は一変しているのが実情。地域の団結、自治体の指導で復活の舵取りは出来ないものなのだろうか。本気に取り組む政治力を切望したい。
華道専慶流 西阪慶眞
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