「人を見たら悪人(泥棒)と思え」、「全ての隣人を愛せよ」は相対する言葉。さぁ、あなたはどちら派に属しますか?。どちらも遠い昔から聞いている言葉。しかし、私たちの生き方そのものを、知らぬ間に現代社会に合った方へと軌道修正させられているのではないかと思えるのです。それは意志による、より良い選択の道ではなく、社会情勢の圧力で無意識的に、必然的に、無関心、無責任方向へと引っ張られ、油断しているといつの間にか自分の思考回路が、すでに変換されている…と言う事に気付かされた事はないでしょうか? 例えば、ふと、私ってこんな人間だったかな?…と。
実は先日、電車の車内放送で、「イヤホンの落とし物が届いています、心当たりのある方は…」と。間もなく、「落とし主が見付かりました、ご協力ありがとうございました。」何気なく聞き流した。ほんの数分後今度は「切符の落とし物が…」そして、「…ありがとうございました」と再び。ふと思ったのです。落とし主、拾得者、車掌、それぞれを我が身に置き換えて考えてみると…
落とした、忘れた事に自分の情けなさを思っても、大きな物?高価な物であれば別だが、意外に簡単に諦めてしまうかも。
また、落ちているのを見つけても、それが切符程度なら、拾い届けるなんてしない。更に、こんな車内放送を耳にしたこと事態、最近の記憶に無い…。
小さな?落とし物ひとつを巡る一連の流れに、本来あって当然の事では無いかと改めて気づく。
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この車掌の、届けられた切符一枚に対し、無責任な仕事では無く、マニュアルを超えた臨機応変の対応、人と人を結ぶ心ある仕事への情熱と行動。
情深く、思いやりのある、勤勉さ…これが、日本人らしさと他国の人が認めていた時代が確かにあったのでは。自分達で自分達が生きにくい社会へと、誰もが手を貸してしまってる。人のせいではなく、私達ひとりひとりの心の在り方次第なのでは…。
東北大震災、とくに原発事故では「目に見えないものを見る」という強烈なメッセージを突きつけられたと思う。先祖代々の土地で例年のように汗水流して栽培した米が汚染レッテルを貼られる…。農業者にとってこんなに情けない事はなく、何時家に戻れるかもわからないと言う状況では、何もかもが信じられなくなるのも無理はないだろう。しかも、その物騒な原子力発電所はこれからも稼動させると言う。はたして子供や孫に里山の自然を継承出来るのかどうか、はなはだあやしい。
今まで気にもしなかった目に見えないもの、例えば愛、思いやり、優しさ、緑のパワーなどなど、必死で見ようとしても見えないし、言葉に表すにしてもとても難しい。そんな無言の阿吽の呼吸と共に暮らして来た尊さをしみじみ噛みしめている。何としても次世代に継承したい一心が後押しをする。
華道専慶流 西阪慶眞
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