待ちに待った櫻の開花。四月下旬、初老の団体が満開の櫻の木の下にブルーシートを敷き、ビールを飲みながら笑顔で櫻を愛で、鼻唄を歌いこの一瞬を楽しんでいる…観る者の心も高揚するこののどかな光景は、四季ある日本の春の風物詩。寒さ厳しい冬を乗り越えて来た心を一気に癒し、温かな風に新たなエネルギーを得る一瞬でもある。「久しぶりのビールが美味しい。こうして花見をするのは本当に楽しい」とインタビューに応える人の、テレビ画面から届く笑顔は穏やかで明るいが、実はそこで花見をしている人々は多くの悲しみを背負った人達だった。久しぶりに口にするビールが美味しいと笑顔で応えていた男性は、津波で全ての家族を失い一人に…。その笑顔からは想像出来ない大きな大きな悲しみを背負っていたのである。その花見の宴の中に居た人々は皆、地震、津波の被災者であり、共に避難所生活を過ごす仲間であった。このひと時の笑顔を見て、誰が不謹慎と非難出来るだろうか。
震災の後、イベントや享楽する様々な催し、行為は自粛…そんな場合じゃないだろう!と。確かに浮かれている場合じゃない。しかしもうひと月半、人の心を何らかの形で可能なら解きほぐす事も、大切な事では無いか。深い苦しみや悲しみと向かい合う日々の中だからこそ、何らかの形で、積み重なって行くストレス解消が必要では。花なんて言ってる場合じゃないと言うが、本当にそうだろうか。被災者のこんな言葉も耳に入って来た。
「ここの櫻は、白木蓮はとても綺麗だった。もうすぐ見事な花に出会えると楽しみにしていたのに、全てが流されて…ほんとうなら今頃はと思うと、あの花を見たい気持ちでいっぱいになる。花を見れば少しは心も元気に…でも今は花なんか言ってる場合ではないのですよね…」と周囲に気遣いながら涙で言葉を詰まらせていた。 |
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人それぞれに価値観は異なる。被災者も、支援者も、物の見方や捉え方、その善し悪しは、誰にも判断出来ない。ただ、ボランティアのあり方も、支援の仕方も、それを受ける側も、時と共に変化は有って当然。悲しみの共有は、復興への元気の共有でも無ければならない。どうだろう、こんな時だから何もかも自粛、我慢では無く、時には花を愛でる等、共に楽しみを分かち合い、喜び合い、共に励まし合う…笑ってはいけないでは無く、笑えば一瞬でも心はホッと穏やかになる。一つの笑いが二つ、三つ…重なって行く程に、人の心は消せない現実を受け止めながらも前へ進む元気を手に入れて行けるのでは。気遣いが、反対に窮屈さを与えたり,感情を強制するものではいけない。まだまだ復興の先は予測不能の長い長い時間が…共に手を携えて、未来へ向かわなくてはと改めて自身に言い聞かせているところです。
今日、小雨の中、宿坊「正源寺」にお詣りを。苦しいときにあっても花をいける、愛でる、創作する感性をつちかう…それが日本人の心の大きさだと住職。壁画には専慶流の立華が描かれているが、数代前のお住持の手によるもの。堂内は明るく、立て替え予定にあるとは到底思えないほど、活気に満ちていた。
華道専慶流 西阪慶眞
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