「近いうちに」…その長さが取りざたされ、あげくの果てに突然の解散劇。国民の為の、国の為の政治と言えば大義名分がたつ。しかし国会での責任転嫁や、揚げ足とり…果たして私達国民はどのポジションにいるのだろう。ただ、私達自身も人任せではなく、自分達のとるべき行動を見直す事が必要なのではないのか。欲しい物が簡単に手に入りさえすれば…、という考え方が一番になってはいないだろうか。全てとは言わないが、どこかで優先順位が間違ってきている様に思えてならない。
以前にも話題にしたが、世界に類を見ない日本古来の伝統文化、匠と呼ばれるその技術が作り出した優れたモノが今も受け継がれ残っている。しかし、長い年月をかけ技を磨かなくても今では少し慣れれば機器がやってくれる。日本人の気骨より、いかに早く機器を操る事が出来るか、それが若者の生き方に移行している。
このままでは、全てが語り継がれるだけの伝説と成って行く。手間ひま掛けた高価な一品よりも機能が手に入ればそれで良い、駄目になったらいつでも買い替えれば良い。さらに安価ならもっと良い。物にこだわる事を放棄したこの感覚は現代人であれば当然なのかもしれない。しかし、それはある種の感覚麻痺を起こしているとしか思えない。何故なら、心をこめて作り上げた者の存在や全身全霊で時間と労力を注ぎ込んで来た事への評価は問題にしない…のは、やはり人間的でないからだ。伝統に限らず、パソコン、携帯、テレビ等の電化製品、車…近代文明とともに汗水流して開発して来た多くの技術を蓄えながら、企業は経営困難に。
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それが日本経済を圧迫する要因に。家電量販店、ディスカウントショップ等の台頭は質ではなく価格勝負。安さの追求が暴走している。勤勉と呼ばれる日本人は、手先も器用で様々な物を生み出す…こんな風に賞賛されていた時代が懐かしい。今は…苦労した様々な開発も、直ぐにコピーされる時代。良いもの、特別な物に対する思い入れと言った様な感覚がどんどん薄れ、金銭のやり取りだけに。街が廃れている最大の原因は「専門店」が成り立たなくなった事から。
十一月の中旬、クリスマスケーキや、おせち料理の予約、スーパーの店内には鏡餅が山積みに。あぜんとする。商売に於ける季節の先取りはある程度理解していても、この鏡餅を今この時期に…違和感を感じるのは私だけ?。いけばなを始めた頃、手にした最初の鋏を50年近く経った今も使っている人がいる。決して丁寧に手入れをして来た訳ではなく使いたい放題、しかしどんな鋏よりもしっくり手になじみ、どんな物でも問題なく切る事が出来る。鋏を握るだけで安心感、一体感があり、何よりも愛着が。
物は使いこなす、人は導き育てると教え込まれた。それが一変、何もかもが今さえ良ければ…そんな風潮になっている。ほんとに大切な物、大切な事を見失ってはいないだろうか。量より質、質より量…一様の網でなく、心ある見極めはいつの時代も同じ。農業もしかりである。
華道専慶流 西阪慶眞
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