最近少なくなったようだが、デパートの売り場や店先、或いは電車内等、様々な公の場で自分の欲求が満たされず泣き叫ぶ子、暴れる子、時には余りのマナーの悪さに、内心「うるさいなぁ。親は何をしてる…」とイライラしたり、知らぬ顔をする親に怒りを覚えた経験の一度や二度は誰にでもあるのでは。最近では小さな子に限らず、中高生、大人までもがマナー違反を平気でする。
勿論子供の場合親が傍にいれば、本来ならば親がその子を「怒る」のでは無くその行いを正す為に「叱る」べきである事は言うまでも無い。しかし厄介な事に、「怒る」ならまだしも、迷惑を掛けている事に気づいていない親もいる。昔なら当然の如く叱っていた「よその子」だが、現代社会ではそれも難しい。全てとは言わないが、昔は親だけじゃなくご近所さんが一緒に子育てをしていたのだ。持ちつ持たれつ…我が子が怒られていても、何か悪戯でもして叱られているのだろう…位にしか思っていなかった。ある意味、親の目が届かなくても誰かが何処かで見てくれていると言う連帯感、安心感の様な物がそこには普通にあった。しかし今はどうだろう、我が子を叱らない親の前でその子を叱る事は出来ない。叱ろうものなら過保護な親は、「叱られている」「怒られている」の判断も出来ず敵意を持って向って来る。親が正さないなら、誰かが正してあげなければ…の善意も大きなお世話と言うのだろう。しかし、そんな小さなひとつの見て見ぬ振りが積み重ねられてきてしまった結果が、耳を目を覆いたくなる様な取り返しの着かない事件へと繋がって来たのだとすれば由々しき問題である。
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先日渡辺淳一氏が、核となる家庭の崩壊が日本全体を歪めてしまったのだと嘆いていた。戦中戦後、それ以前の倹しい生活環境の中でも肩を寄せ合い、家族の一員を形成し、その中で様々な事を学び生きて来た。食糧が豊かでは無い日々にあっても家族団らんの食事が親子、兄弟のそれぞれの繋がりを強くし、それぞれの立場を明らかにした。個人部屋等無く、互いの顔を常に見ながらの共同生活の中で優しさや、感謝、思いやり、我慢、分け合いと言った心が培われた。一家に一台のテレビだからこそ、皆で見ながら様々な会話が出来、個々の感性や会話術を磨く事になり、チャンネル争いが自己主張や討論、優越感や我慢、協調性等を養う要素となり、それが社会に無理無く順応する力となったのだと。
日々の生活にゆとりができ、楽で快適な生活をする事で家族の繋がり合う時間が増す…その為の文明の発達だったはずが、ご近所さんの感覚がいつの間にか隣りに誰が住むのかも解らなくなり、同じ屋根の下に住む家族の繋がりまでもがどんどん希薄になり把握出来ない現実…自然界の異変は気象だけでは無く、私達ひとりひとりにも言える事。誰が優しさや思いやりある本来の人間らしさへと導くのか…。
誰かに指摘されたり注意されると身構えてしまうのが人間。求める側に立てれば教育も実効力を高めるはず。花や動物などに接する機会を増やし、自然と近しくすれば、そこから学ぶ意義は深いと思うのだが。
華道専慶流 西阪慶眞
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