優しさや思いやりが常識という節度ある形で当たり前だった遠い日の日常社会、お隣さん感覚で人と人とが互いを感じ合いながら暮らしていた日々は、現代人には想像出来ない過去になりつつある。急速、劇的変化を続ける近代社会にあって、この常識をかろうじて論じ、考える環境にあるのはまさに現代が高齢者社会だからこそ。人との、自然との共存が自発的常識という概念を基盤に大正、昭和、平成と時代を越えて生きて来た人々が目にして来た確かな現実や、急速に進む近代化へのギャップをある意味半強制的に順応しながら受け止めてきた人々の歴史が、辛うじてまだ語られる状況にある。しかし現代人の多くは、合理的に思えない常識は受け付けない、耳を貸さない。現代人の驕り?…それが本来そこにあるはずの人の温もり、幸福感を消失させ、人と人との距離を遠ざけ、人の繋がりをさらに稀薄にしてきた第一要因と思える。常に過去の反省の上に今が、未来が構築されるはずなのだが、振り返る事よりも無謀にも思える程前進のみに目を向けているように思えてならない。世界規模での共存…一緒に…に虚しさだけが響く。まずは、どんな時にも頼り頼られる身近なお隣さんからではないのだろうか。
記録的な…予想外に…かつて経験した事の無い…自然界ではこれまでの常識を超えた気候の変化や、それに伴う竜巻、豪雨等による心痛む甚大な災害が急激にその数を増している。自然界の異常だけでなく人間社会も歩調を合わせるかのように、予測不能な事件や事故が日々当たり前の様に起こっている。突然の出来事?異常事態?、その全てが人ごとではなく、私達の誰もが渦中の被害者となり得る。
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しかし、そう思いながら多くの人は現実になった時の自分を想像すらしていない…のでは無いだろうか。報道に依ってその原因、経過、結果をリアルタイムで認識し恐怖を覚えたとしても、さてどのくらいの人が転ばぬ先の杖をつくだろう。万が一が予測出来てもなお、まさか…の思いにつかない事もあるのでは。
善し悪しという二面性…事件、事故、災害等は特殊な場合を除いて、見る側によってそれぞれに譲れない理由があり、一方的に判断するのは困難。第三者的に判断しても、そこにはまた個人の価値観が働く。一つの結論をどうしても見いだす為には多数決と言う事になるのだが、賛成、反対のどちらにも出た結果の行く末に不安は拭えないはず。それは、そこに絶対という確信を持てない、人としての不確さが常にあるからではないだろうか。伊豆大島に限らず、今年だけでも各地に多くの大災害が起こっている。竜巻、津波、土砂崩れ、水害、噴火、その他人災…予見しにくい災害発生にどう対処すれば良いのか。完全ではないにしても、過去の歴史の再確認や現地に残る言い伝えを聞く耳は大切にしなければいけない。福島の原発の様に、国の方針がその災害をより大きくしている事も。文明の発達が、どのような状況であれ人の生命を脅かしては意味が無い。ただ、私達も人任せではいけない。災害から免れる為に冷静な一個人の行動や判断力が回避へと繋がる事象もあるのは確か。誰もが可能な限り転ばぬ先の杖、知識やそのための種々の準備、情報収集の他、地域の連携を心がけたいもの。
華道専慶流 西阪慶眞
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