嘘八百…何を疑い何を信じれば良いのか。「嘘も方便」…時にはその嘘に心救われ、助けられる事もあったり、ユーモアを含んでいた。そんな時代が懐かしい。しかし、近年は特殊な場合を除けば不快でしかない「嘘」で塗り固められている。この現象が標準化するのだろうか、空恐ろしいことである。
一つの「誤表示…」に始まった虚偽表示問題は、留まるどころか様々な分野へと広がり続け、想像を遥かに越える嘘の蔓延した現代社会を浮き彫りに。はたして終結を迎えられるのか。「嘘つきは泥棒の始まり」と、声を大にして躾て来た時代は遠い昔?。正すべき大人の権威の消失は、信頼関係そのモノにヒビが入る。
信じる者は救われる?…では無いが、ブランド力への思い込みに疑いを持たず、全てを信じてしまった現実が、虚偽横行を見逃す事になったのも確か。私達は日常生活の中で、産地や製造元、ブランド名等に導かれ、無条件に良いもの、間違いないものと判断していた。表示に頼り、それを信じたのは当然の事だったし、疑うどころか、全てが良いものと思い込んでいた。結果、そこに無意識の内に信頼関係が成立し、名ばかりの信頼関係による悪循環が始まったのであろう。製造元や日付を偽装、様々なデーターの改ざん等々…その良し悪しは誰に問うまでも無く明らかであり、決して許されるものではない。にも関わらず、様々な分野で行われていた虚偽表示。気づけば誰にも判断出来る明らかな大人の「嘘」がそこに。
では、嘘をつかなくてはならなかったその理由? もしも嘘が明らかになったら? と言う考えに何故及ばなかった? まさに「嘘つきは泥棒の始まり」の所以がそこに。どんなに言い繕っても、保身、私利私欲の計算意外の何ものでも無い。「これぐらい…」という小さな嘘から始まり、誰もが同じ事をしているのだから…と言う責任転嫁、やがて良し悪しの感覚の麻痺が後戻り出来ない大事に至り…。
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生きにくい世の中、今の世は「正直者は…」何処へ向かうのだろう。目に見えない真実、横行する虚偽、さて、私達は何を信じて価値判断をすれば良いのか。錯覚、思い込みと言う落とし穴、肩書き、地位、表示された品質、ブランドのみで判断するのではなく、自分の五感を通し、自分の責任において決断する能力が試されている。例え虚偽に巻き込まれても、それも自己責任、他者への責任転嫁をしない事。より間違いない判断をする為に必要なものは、自らの五感を磨く事ではないだろうか。これまで学び、得て来た多くの知識と、自らの体験、経験で得て来た感覚を更に高めて行く事が、ものの良し悪しを見抜く力を養う事になるのではないだろうか。50の手習い…今は90の手習いを実行している人もいる。何事も人ごと、遅いと諦めるのではなく、自身のより良い生活空間を得る為に、新たな挑戦、自分磨きは多いにすべきでは。
虚偽問題、防空識別圏、秘密保護法案、TPP…どんな問題も、嘘をついたついてない、取った取られた、ひいき、意地悪…余りにも幼稚で、子供世界と全く同じ…だとすれば尚更、手本となるべき大人社会を身近な事からもう一度見直す必要がある事を提示していると云えよう。
華道専慶流 西阪慶眞
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