「備えあれば憂いなし」。予測の出来ない突然の災害に対して、私達はいったい何が出来るだろう。昨日まで、つい先ほどまで共に生活していた人が、突然いなくなる現実…。阪神淡路大震災、東日本大震災,温暖化がもたらす豪雨、竜巻等々、近年度重なる私達の予測を遥かに超える自然災害を目の当たりにする度に、私達人間の無力さをまざまざと思い知らされてきた。その傷痕の癒えぬ現状の中で、9月27 日、御嶽山噴火と言うとんでもない現実に直面。紅葉の便りが出始めた週末、自然に親しみ、愛でる多くの登山者が…。
四方を海で囲まれた、四季のある緑豊かな、美しい“小さな島国日本”は、同時に火山大国,地震大国日本とも呼ばれる。今回の噴火で改めて認識したことがある。報道の中で学んだことだが、多分雲仙普賢岳噴火の折にも知らされていただろうはずの知識も、恥ずかしい事に記憶に残っておらず、改めて驚いた事実が。世界中の火山に占める我が国の火山が一割近く、狭い国土に110 と言う数の活火山を有している事。更には100 年間の間にこの内の47の火山に噴火の可能性があると言うのだ。当然監視体制はとっており、マグマの動向は捉えていると言うが、いつ、どこでと言う的確な予知は出来ないのが現状とか。そんな監視体制の中で,今回の御嶽山は噴火警戒レベルは一番低かったと言う。つまり,現在活火山と言われている火山は,全て今回の様に突然噴火する可能性を秘めている。当然,にわか登山者も含め連日多くの人が訪れている世界遺産に登録された日本の象徴“富士山” も状況は同じなのだ。もしも富士山噴火が現実となった時、はたして災害にあった犠牲者をどこまで把握できるだろうか。
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もし自分がその噴火に遭遇したら…これまでに考えてみなかった事が、とてもこれではいけないと真剣に考える事を促している。失われた尊い命への思い、連日過酷な条件下にありながら少しでも早く、不確かな数の全ての人を…と捜索に向かう救助隊の人々。一方、第三者…報道関係者はすぐに予報に誤りがあったとか、国の責任問題を押し付ける傾向にあるが、さて、それはどうだろう。アメリカの数々の国立公園、例えばあのスケールあるグランドキャニオンの絶壁や川淵を観光客が自由に歩くが、全て自己責任。落ちて亡くなったからと云って柵は作らないし、国を相手取ると言う事もないのでは。何故なら立ち入りは自由、あくまでも自己責任である事を周知しているからでは。
人為的なものならその責任の所在追求と検証は、再び同じ過ちを繰り返さないために必要だろう。しかし、予測の出来ない突然の災害の責任追及、責任転嫁はトキと場合だと思うが、自分の意志においての行動に対し、自己責任と言う認識を持つことが人と共存する社会での基本認識だと捉えるのが自然なのでは。私達の日々には想像もしていない出来事に、いつ、どこで遭遇するかわからない。常に、他人事ではないという意識に立って、個々の予知、予測能力の質をさらに高める時代にあると云えよう。
華道専慶流 西阪慶眞
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