東日本大震災から間もなく3年、そして阪神淡路大震災、
オウムの地下鉄サリン事件からはおよそ20年の時が流れる。
この時間を皆さんがどの様に捉えるのかは、その人がどの
ような状況下に在ったのかで大きく変わるのだろう。様々
な報道を介して視覚、聴覚の記憶として受けとめた感覚と、
実体感として受けとめなくては成らなかった人との記憶差
は、否応無く両者の間に大きなブレを生じさせる。
先日紙面にオウムの文字を見、サリン、上九一色村(か
みくいしきむら)、サティアン、麻原彰晃…当時の報道が頭
を駆け巡った。しかし、それが遠い日の記憶と言う感覚は
第三者の意識。当事者の忘れたい現実は、どんなに時が流
れてもその瞬間が常に身近にあり、その苦しみを、恐怖を、
憤りを忘れることは到底出来ず、突然に降って湧いた心の
大きな穴は、決して埋まる事はない。オウム関連の新たな
裁判の報道に、そっとしておいて欲しい思いと、正す事へ
の思いの狭間で否応無く当時の現実に再直面する人々のそ
の苦悩を垣間見た。事件の解決を願い、たとえ叶ったとし
ても、心に負った体感を忘れる事の出来ない当事者に対し
て、第三者側に立った人達にも忘れてはならない大切な役
割がある。それはどんな出来事も決して風化させてはなら
ないと言う事だ。誰もが二度とあってはならないと思い願
う戦争でさえ、当事者ではない他人事はいつか忘れられ、
同じ過ちに向かいかねない現実。今、20 年余りの間に、現
に姿形を変えながらもオウムの信仰者は近年増加傾向にあ
ると言う。今年新成人となった若者達に問えば、事件を知
らない、聞いたことはある等と回答する… 20 年の時の長さ
をまざまざと見せつける実態だが、あってはならない第二
のサリン事件への可能性をなんとしてもくい止めなければ
ならない。
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某新聞紙面の中に見つけた記者の短い問答。中国、韓国の反日
感情を扱ったニュース。現地ではさほど大きく取り上げていない
事象を日本で記事にするのは「読者が好んで見るから、雑誌はそ
んな記事を取りあげると売れるから…」と云う。中立で、真実を
伝えるはずの報道のこの記者の言葉、感覚に怒りさえ覚えた。
人の心を悪しき方向へと煽ったり、国際問題へと導く事にも成り
かねないのだ。報道と言う手段、新しいニュースをいち早く伝え
知る事も重要だが、震災やオウムの事件等々忘れてならない出来
事を後世に伝え第二の悲劇が起こらないよう、また、復興への支
援が続けられるよう、せめて毎年掲載という、過去を伝え続ける
事はとても重大な責ではないだろうか。
開かれた情報社会だからこそ、人任せで世の中を見ていてはと
ても危険な時代と云える。平和な穏やかな世界を目指すなら、私
達一人一人が時に困難でも、安易な意見に流されるのではなく、
真実を探り、真実を見極める力を養わなくてはならない。私たち
は報道と言う手段で様々な出来事を知り得るが、それを鵜呑みに
するのではなく、自分の価値観、自己責任において判断出来る能
力を高めないといけない。と同時に、自ら語れる過去は、一つで
も多く若い世代へと伝える事が、先を歩く者の努めではないだろ
うか。
華道専慶流 西阪慶眞
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