「古き良き時代、昔は良かった…」と、語れるのはある程
度の年齢を積み重ねてきた人達の特権であろう。必然的に
現代と比べる過去を生きて来たからこそ使える表現なのだ。
そう考えると「今時の若者は!」と批判的に用いられるこ
の言葉の使い方には、少し問題がある。何故なら、この現
代社会に生まれ育った彼らに「今時の…」と批判するのは
お門違いではないか。何かにつけ、その年でそれ位当たり
前?常識だろ?…的な思考はそもそも今時通用しない。感
覚の相違、価値観の違い、それ以前の問題、急激な文明の
発達により根本的に生きた時代背景が余りにも違うと言う
認識を互いに素直に理解し合わ無ければ、先達から受け継
いできた大切な文化の重みさえも計り損なう。
古き時代を良しとする感覚にはそれなりの理由がある。
それは、積み重ねる日々の生活の並々ならない努力と知恵
の結晶であり、感覚であった。無理強いではなく負荷を生
み出さない知恵の行使、誰もが自然と共にある生活に寄り
添う改善の繰り返しとでも言えば良いだろうか。それに対
し現代社会では、目覚ましい近代文明の発達に伴い、美し
く合理的でスピーディーなゆとりある快適生活空間?が誰
にも無造作に与えられた。自ら欲し、求めて得られた物で
はないからか、それに固執することも無くいとも簡単に次
なる変化を求める。時と共にその代償として失われてきた
ものは、物の価値ではなく、物を見る目に他ならない。
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未来への私達の大切な役割は、価値有るものを見極める
目を養う事。その為に必要な事はただ一つと言えるかも知
れない。先に立つ者が、真剣に伝える努力を怠らない事、
と同時に、受け止めようとする者が真摯な態度で向かう事、
に尽きるのでは無いだろうか。身分の上下、年齢の上下に
は関係無く、教える側と教わる側にはそれぞれに立ち位置
があって当然だろう。相手を尊敬できない関係では、何も
学ぶことも得ることもできない。敬い慕う相手の存在があっ
て初めて古き良きものを受け止め、そこからまた新たなも
のを見出せるのではないだろうか。
丁度、このような言葉が今耳に届いた。人の心を動かす
のに 最先端の技術は使わない。人を感動させるモノは、
文明の利器ではない…現代の技術ではどんな表現も、想像
を形にすることは可能だろうが、感動させる、感受性を呼
び起こす最大の近道は自然との対話だと。
何かで補う、何かで取り繕えば、楽をして一時しのぎの
感動は与えられるかもしれない。しかし、事実を知ってい
る自分自身にとって、それは本物ではない、完璧でも満足
のゆく結果でもない。最善を尽くした結果で感動を与えら
れなければ、与えられるまで努力を続ければ良い、それが
本物に近づくという事…磨き続ける事に終わりはない…。
葛西選手のたゆみない進化と挑戦、これでこそ、感動、共
感なのでは。
華道専慶流 西阪慶眞
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