流通、輸送技術、IT関連等の進歩により、望めばなんでも見聞き出来る恵まれた環境に生活している。その特権の行使が我が国伝統文化の将来を左右するのではと言われているが、さてその真意はどうか。
歴史の中で作り上げられ、継承されてきた伝統文化。本来そこにあった「内容や質」、それが日本人らしさでり、特徴だった。しかし今は、日本文化、日本らしさ、日本人らしさノそれが見えなくなるほど、見た目の社会は変わり続けているように見受ける。
西洋かぶれ(ノ言葉は悪いが)、明治の文明開化に始まる西洋文化への傾倒が、近代文明の発達をもたらしたのだが、一方、目新しい物ばかりを求め、欲を満たすことに夢中になり、本質を見失った一面も無きにしもあらず。
いつか見た外国人教授の言葉を思い出す「日本人はなぜ日本から学ばない」。日本独自の良さに他国の人は深く感銘し共感しているのに…。目の前にある大切な木の実を見つけられず、他の木の実ばかりに目が行く、欲の拡大?だろうか。隣の庭の実の方がよく見える錯覚は、いつの間にか、本当に大切な実が忘れられてしまい、我が国独自の感性までも錆びつかせてしまいかねない。
例えば現存する明治の伝統工芸品に見る技巧、日本人のきめ細やかな手先の器用さ、気の遠くなる時間の積み重ね、根気、一途さノ各種技巧士の手によって生み出されたその作品のひとつひとつは、まるで神の領域を思わせるほどに見る者を圧倒し、言葉にならない感動、驚愕、驚嘆ノを体感させる。それほど貴重な技巧にも関わらず、後継者が育たない現代社会…何故か?。最大の要因は暮らしから遠く離れた事。見たり触れたりする機会が無くなった事だと思う。里山文化はまさにそこに住んで肌に感じ、五感を通した智慧や工夫が暮らしに豊かさをもたらしてくれていた。
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しかし、いったん崩壊させてしまった「暮らし」から、どのようにしてこれまでの優れた文化を継続させていけばよいのか。解らなくなるだけでなく、不合理だけが目立つようになった過去の苦い経験が。だから、継続だけではダメ。暮らしに融け合い、如何に優雅に共有し、そして互いが学ぶかが根底として根づいていないといけないのではないだろうか。
百円均一商品に問題があるわけではない。日本人の長所は機能面だけでなく、常に美意識が平行して作用いていた。竹を採ってきて箒を作る。板で囲いを作る。屋根に藁を敷いて雨をしのぐ。斜面を利用した田畑の造成…等々、小さなものから大きなものまで、合理性プラス「美意識の高さ」だった。
残念ながら近代技術は流出してしまったが、培って来た「感性」は我が国独自のもの。さすがにこれだけは外国に売る事は不可能であろう。日本でしか出来ない、日本人の手でしか産み出されない巧妙且つ合理性、そしてさりげない品格では決して劣る事はない、まさにプライド。ただ、同じ空間で同じ物を見ながら、そこから得る物は感性、探究心…人それぞれに異なる。良さを感じるから見入る。感動、感銘は視覚から捉えられるものノ理屈ではなく、作品を前に無条件に本物を体感する事で、新たな興味を持ち、反射的に「更に深く知りたい」、自ら学び、手がけて見たくなる…と言うのが日本人の本質。だとすれば、優秀な技術保持者、芸術高揚に貢献する人にはその学び環境を個人だけに任せるのではなく、国が優先し援助するのも大切な施策。
伝統を繋いでゆくノ古臭いのではない、そこに存在する(生きる)価値こそ、私達日本人の誇りとなるもの。人の手で作り、生み出された気魄を、可能な限り後世へ伝え続ける…それが私達ひとりひとりに与えられた責任。私達が向き合ういけばなもしかり、大切に伝え続けて行きたいもの。
華道専慶流 西阪慶眞
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