私達は言葉と言う手段を用いて意思表示をし、人との繋がりを築いている。声や文字という言葉に様々な思いを託し届けると言う動作は、互いを理解し合う為に無くては成らないもの。しかし、そんな言葉が時には誤解を招き、人と人を遠ざけてしまう事もあるのかもしれない。誤解…少し違った向かい合い方をすれば避けられたのかも…と振り返れば思える事もあるだろう。しかし、可能なら、やはり転ばぬ先の杖にこした事は無い。ではどうすれば多少なりとも、誤解を避ける手だてになるのか。誰もが知るこんな言葉がある、「目は口ほどに物を言う」、そう、相手への思いを込めた眼差しは、言葉と同じ位相手に思いを伝える事が出来るという事なのだが、お隣りさん感覚がなくなり、人と人との繋がりが稀薄になってしまった現代社会だが、地域のコミュニケーション、会話が、一番大切な意思疎通の源がここにあるのではと改めて思う。常に相手を敬い、思いやり、優しさを思って向き合えれば、自然に人と人は繋がれて行く…。繋がらないとしても心地よい一瞬のすれ違いは可能になるだろう。すれ違い様の道の譲り合い、座席の譲り合い、物を拾う、偶然の隣り合わせでの会話等々、きっかけを思えば誰にでも無制限にそこら中に溢れている。
こんな経験があなたには無いだろうか。例えば「頑張って」と掛けられた言葉に対して、励ましと受け留め、まだ頑張れる!と素直に思えた事。或いは、こんなに頑張って来たのに、まだ頑張らなきゃいけないの?と納得の行かなかった事
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更には、「あなたには言われたく無い!」と苛立った事…。そう、同じ「頑張って!」の言葉も、発する相手次第で、受けとめる言葉の重さや意味までも違ってしまう。その違いは何処で生じるのか?
当然付き合いの長さ、深さ、信頼関係、価値観等々も考えられるのだが、偶然隣り合った二人であっても、その会話が真実であれば、無意識の内に思いは自然に伝わり、その僅かの言葉の中に込められた思いやりや優しさを感じ取ることが出来るのではないだろうか。これは、ある20人近い女性の集まりの中で話題に上ったものであり、女性特有な部分もあるかもしれない。が、相手を選ばず、前もって得られた情報で作り上げた人物像も取り除いて、利害も考えない、ただ、真剣に耳を貸す事が大切。可能な限り相手の立場に立って、自分なりの考え判断で向かい合うべき…だと。
ご近所さんのご挨拶、社交辞令等々…どんな場面でも人に言葉を掛けるなら、我が身に置き換えて、掛けられて心地よいと自分が思える言葉を掛けるよう小さな意識改革をしてみても良いのでは…。戦中派近辺生まれの人では飢えからの生還者で努力と信念の塊とも云われる年齢層。現代社会、人間関係の気魄に苛立つ人が増加、時流との壁がさらに拡大され、精神的障害に陥っている人もあると云う。全てにバランス感覚を期待するのは無理としても、主張のオンパレードは慎みたいもの。
華道専慶流 西阪慶眞
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