内容はそれぞれに違っても、待合室での順番待ちを経験した事が無い、と言う人はまずいないだろう。更に、待たされた時間の感覚に差はあるが、とにかく「まだぁ〜」とイライラ…。必要にかられた、ある意味とても重要な順番待ちであり、それ故に待つ人の立場によって様々な人間模様がそこには現れてくる。到着するなりさほど待たされた訳でもないのに、今か今かと落ち着かない人もいれば、随分待たされているのに、いつかは呼ばれる…と半ば開き直っているのかと思えるほど、苦情も苦言も無く悠然と構え、ひたすら待つ人も。基本的に待合室で待つと云う行為は誰にも平等に受け身であり「郷に入っては郷に従え」。じっと我慢し本当に緊急性のある状況以外は待つしか無く、それは、誰もが理解しているはず。 例えば病院の場合、患者自身なのか、付添人なのかでも様子は違ってくる。10 分経過、20 分経過…いつまで待たされる!具合が悪いから来ているのに!と…不安な思いに実時間以上の時間の経過を感じ、イライラを増長させてしまうことは、どちらにも、誰にもある事は間違いない。ただそんな場面で理性ある判断と、どのような行動を取るべきなのか?。医療の現場に関わった人の言葉だが「我慢して欲しい人が我慢出来ず、我慢せずに申し出るべき人が我慢し症状が悪化…は現実にある」と。本来受け身である私達はどのようにあるべきなのか。
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反対に、待合室での待ち長い時間に隣り合った縁で様々な会話が弾み、楽しい時間を過ごせ、それが縁で茶飲み友達になった…なんて言う話も普通にある。確かに状況、症状は人様々だから一概に言う事は出来ないが、人と隣り合って過ごす時間は、それがどんな場所であっても、間違いなくそれも一つの縁となり、互いを知る事で支え合い、助け合う事に繋がって行く事は間違いなく、 そこに自然にお互い様の思いやり、譲り合う優しさが生じてくる…振り返れば、そう言えば、と思う事が誰にでもあるのでは。 「無くて七癖」と言われる人の性格は、隠していても様々な場面で自然に表れるもの。どんなに取り繕った所で、本来の性格は隠せるものではない。例えば車を運転する人は誰もが、こんな場面に出会っているかと。時間無く慌てているのか、ただ単に落ち着きがないのか、我先に…停止信号後の急発進、時には制限速度オーバーの無茶な追い越し。なのに、次の信号でまた同じ状況で隣り合わせに。我先にと急いだ所で結果はそんなに変わるものではない。「慌てる…は貰いが少ない」なんて言う言葉が当てはまる様な行為に様々な場面で遭遇する。だが個性を持つ私達は皆人それぞれ。人と向かい合うとき、相手が今どのような状態(心身共に)でいるかを考えてからの発言や行動が出来れば、敢えて無理に取り繕わなくても、自然に優しさや思いやりは連鎖すると思いたい。 慌ただしい現代社会の中にあって「隣りは何をする人ぞ」ではなく、日常から互いに譲り合い、助け合える関係、ほんの少し待 つ、ほんの少し相手の立場を考える事を心掛ければ、私達の住む 社会は、もっと住み心地好いものになるのでは…。自然猛威の連 続下、自己防衛だけに陥っては一輪の笑みも読み取れなくなるの ではと憂える。
華道専慶流 西阪慶眞
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