ある新聞のコラム、「町から祭りが消える…」と。確かに、昭和世代あたりまでは、村祭りの言葉に象徴されるように、身近な場所で当たり前のように祭りを目にし、お囃子を耳にし、参加したものだ。もともと祭りは豊作を祈るなど地域の神事、その祭りを共に行うことで住民同士の繋がりが密になったのは云うまでもなく、さらには、日頃地元を離れている家族や知人がそれを目指して帰省する等々、思えば人と人を繋ぐという、目には見えない大きな力がそこに働いていたのは云うまでもない。そんな祭りが消える、何故?…現代社会を考えればその要因は明らか。若者の地元離れ、住民の高齢化…過疎化に他ならない。どんなに思い出多い、どんなに歴史ある大切な地域の行事であると理解していても、それを実行するために必要な人の力、物を維持する力がどんどん失われて行く…。これまで伝え続けてきた村の心を失う意味の大きさには計り知れないものがある。
匠の技術が作り出す物を目にして、人は好みによらず素直に感動、驚嘆する。何故なら、それが一朝一夕にして成せるものではないことを無意識の内に五感が感じとるからだろう。目に触れるまでに積み重ねてきた気の遠くなるような時間の中で、探求、努力、試行錯誤を…誰でもない自分自身の納得の行く確かなものへの挑戦がそこにある。何かを極めようとする人達は、現状に満足せず、自分の目指す先に限りはない、と、常に更なる高みを目指している。
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そこには言葉では言い表せない熱い情熱の積み重ねがある。一代ではなく、先代から学び受け継ぎ、自身が磨き、さらに次の世代へ受け渡して行く。繋いで行く中で変えてはいけないものと、時代背景の中で自身が研き導き出した新しい形や美を…誰もが現状に満足すること無く、自分の可能性に常に挑み続けている。人生の全てを掛けてきたこれまでの時間、そしてこの先も変わることはないと。これら磨かれる技は、日本の文化として個人の財産から、人の、国の、世界の財産へとその価値はさらに大きく生長して行く。
祭りが消える、後継者が育たない…現代は、伝承危機の時代とも言える。我が国独自の伝統文化を後世に伝える義務、責任は今を生きる私達にある。ただ、時代背景や環境の変化に伴って、その形だけに固執するのではなく、遺すための新たな試みや自然環境に合わせた改革も必要なのかもしれない。
今を、未来を豊かにする事を前提にあらゆる科学分野が目覚ましい発展を続けている現代社会。しかし、この20年の間を見ても、異常気象が異常で無くなり、記録的な…、かつて経験したことのない…の表現の前に私達は多くの悲惨な悲しみに出会ってきた。改めて思う、人的災害も、自然災害も、もう異常や特別ではなく、悲しいかな誰がその渦中に居ても不思議ではない!そんな心構えでいるべきなのかも知れない。
華道専慶流 西阪慶眞
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