教室で「私は無器用」だと仰るのをでよく耳にする。一般に器用を上手、無器用を下手、或いはセンスが良い、センスが悪いの同意語のように使われているようだが、果たしてそうなのだろうか。花を手にすると躊躇なくササッと生けあげてしまう人もあれば、ためらい、何度もやり直して一向に進まない人などさまざま。その中には自分は器用でセンスがいいと思い込んでいる人もいれば、自分は無器用でいけばなに向いていないと決めつけている人もいるのでは。器用で上手だと思う人もそれに満足することは禁物であるし、また、無器用で下手だと自分で決めつけることは自分を卑屈にするだけでなく、折角ひらかれた進歩の道を、自ら閉じてしまうことになり、勉強のプラスになるものは何一つない。
本来、日本人は手先が器用で、四季を背景に美意識も高いと言われている。器用、無器用の言葉をつかうにしても、その活用は、個々の心の持ち方にかかっているといえる。いけばなに熱心に取組み、研究を続ければ、こうしたこともつまらないことだったといつか省みるに違いない。花を生ける際、いつもためらいがちで、遅々として進まなくてもそれはそれで良い。いくら早く生けてもマトをはずしたり素材をダメにしていたのではどうしようもない。早く生けるのでなく、よく考え構想をしっかり練ってから生ける事が大切。そのため時間をかけるのは当然の事。ましてや、不安定な留め方で次々挿しても、途中でぐらつくのでは困る。 |
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ときには途中で気分転換をはかりながらも、また考える。考えることは、造形美を探求する現代花には最も重要なこと。そして、形式を重んじる生花様式においては約束事だけでなく、植物の見方、扱い方など言葉では置き換えられない空気感、技量の蓄積が問われる。四季折々の姿や魅力を様々な角度から吸収。努力を積み重ねる事によって、器用、無器用を乗り越えた独自の境地がひらかれ、結果、のびのびと生ける事が出来るというもの。この悟りらしきものこそ、華道の求める道、学びの深さ。器用、無器用がそのまま上手、下手に結びつくものではない。
私もいけばな界に身を置いてすでに60 年を数えるが、花との会話、自身との葛藤はさらに熱く、尽きる事はない。「継続と云う時間」が無器用で頑固な私をここまで導いて来てくれたのは間違いの無い事実。孫が津軽三味線を習い始めたのは小学3年生。教室に通うにつれて面白さが増し、コンテストにも参加。同世代やそれ以上の者が真剣に競ってる輪に入る事で、いつの間にか自分も三味線世界を背負いたいと欲が出たのであろう。賞に入らない辛い時期もあったが、毎日練習を重ねる淡々とした日々の努力が自信にも繋がったに違いない。過日の行く年、来る年のテレビ放送(三重テレビ)では単独ナマライブに出演、放映された。今後も謙虚な研鑽を重ねてくれることを望む昨今である。
華道専慶流 西阪慶眞
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