慌ただしく、目まぐるしい情報社会の中に在って、物事の良し悪しさえ自分なりに結論付ける余裕もなく、消化不良のまま誰も彼もが、知らぬ間に心身ともに負荷の掛かる日々を積み重ねている。納得が行かない現実の中で生きる術は、感情の制御、間違った自己防御へと向かってはいないだろうか。そんな感情がふとした事を切っ掛けに、思わぬ形での発信、行動へと繋がってゆく。本来人は素直で在ること、協調性ある自己主張をすることで、人との共同生活の環境が成り立ったはず。その中で培われて行くはずの人としての在り方は、遠い日、年長者から事あるごとに「誰々を見習いなさい」と。そう、決して特別ではなく、見習う対象がいくらでも身近に存在していたのでは。誤った自己防御が、結果的に目を覆いたくなる行為へ陥らないため、日々の中でどうあるべきなのだろう。
小学校のグランド、幼稚園の園庭…何気なく側を歩きながらふと違和感を…。子供達が沢山居るにも関わらず、笑い声が耳に届かない…。それだけでなく、子供の数を思えばその会話の声の少なさも気になった。授業間、僅かな遊び時間さえ我先にと運動場に飛び出しわいわいガヤガヤ、賑やかなと云うよりもうるさい程の光景が昔は当たり前だった。また、子供に関わらず、何かしら人が集えば会話や笑い声でとにかく賑やかになったもの。笑う門には福来ると云う言葉があるように、自然に出る素直な笑顔は周囲を巻き込んで皆を明るく元気に…。心から笑うことが健康長寿に繋がると科学的にも検証済みだ。この「笑う」は万人共通の感情表現。笑顔は、笑い声は、ただそれだけで、時には言葉が通じなくても、 |
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その表情に導かれて自然に伝わり、心解放された幸せな時を共有できてしまう。
戸外で遊ぶ子らの笑い声や、電車の中で隣り合った親子の限られた空間での遊びのなかで突然起こる微笑ましい笑いに、こちらまで思わずニンマリ…そんな偶然の笑いは普通にあり、その笑いを共有することが、何気ない会話と繋がり、共に心地よい一瞬を過ごせた思い出も。
だが、今は身近にこんな話もある。皆で大笑い…のはずが、その話題を提供している人が嫌いだから、自分は笑わない、笑えない…と言う。本来感情は、感性は人それぞれだから、受け止め方に違いがあるのは理解できる。しかし、内容や、その場の雰囲気ではなく、ただその人が嫌いだからと云うことが前提となると、人と会話することも、大切な意見交換をする場においても、嫌いな人とは、同調しない!の感覚に繋がる。本来持って生まれた感性、自然に内面から涌き出てくる笑うと云う、人としての素直な感情さえも、自分の好みで、意思でコントロールすると云うことになるのか。それではある意味感情を持たないロボットと同じ?インプットした情報に従うだけ。その内容の良し悪し以前に、自分の意に沿わなければ交わらない、感情さえも押さえてしまうと云う行為が今の世では珍しくないという。人と協調出来なければ、共存共栄への道は閉ざされることになる。例え一部であっても、私達はそんな感覚を時代のせいにしてはいけない。どんなに些細なことでも、誰とでも、ひとつでも多くの笑顔、笑いを共有することで、身体の内から自然に沸き起こる無限連鎖に繋げたいもの。
華道専慶流 西阪慶眞
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