気が付けばもう一日が終わる、季節が変わる、一年が終わる…と、日々過ぎ行く時間の中で感じるその流れの早さは、年齢等々人それぞれに置かれた状況で異なるのは確かなようだ。年齢を積み重ねるに連れその早さは年々加速されて行く様に私には思えてなら無い。そう誰にも同じ24時間、遠い日も今も同じはずなのに…。どこかで流されて行く感覚を自ら払拭「さぁ!過ぎた時間は戻らない。ここから新たな一歩を!」と気持ちを切り替え自身を鼓舞し新たな思いを胸にスタートを切るために元旦は待ってこいだと思うのは私だけではないだろう。更に、そんなスタートを切って1ヶ月、思いの再確認ではないが、私達にはラッキー?なことに、節分と云う節目を新たに迎えられる。そう一年の始まりが、ここにもあるのだ。元旦と節分、それぞれそこには異なる大きな意味がある。だからこそ単純な私には、昨日でも明日でもないその一日に対しての思いは大きく、けじめの一日と捉え様々な思いを巡らし、この日を境に、止まること無く挑み続ける時を積み重ねて行こう!と云う思いを改めて再認識する。
目標は、その大小や価値や年齢に関わること無く、一日を終えるとき、過ぎた時間の全てに意味が存在することになる。そしてその積み重ねが気が付けばメリハリのある日々に。掛かる負荷に対しての向き合いかたは曖昧でも良い、無理強いするのではなく時にはそれが言い訳であっても良いのだ。良くも悪くも日々自身で納得の行く終わりかたが出来れば、どんな時間を過ごしたとしても明日へ繋がって行く…、甘いかも知れないが私なりの目標に対する向き合いかただ。
ただ、どんなに曖昧でも、常に人と共存の社会に生きている以上、決して責任転嫁をしない、自身の行動の全てが自己責任であると言う事を忘れてはならないと思っている。 |
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コロナ禍…これまでこれ程の危機感を世界中が同時に共有したこたが有ったのだろうか。文明の発達が様々な情報を世界規模での共有を可能にしたように、人の往来も一昔前には考えられないほどの移動距離になっている。それに伴い身近な人…と云う範囲は、今では世界中に広がっている。そんな中で今私達が向き合っているコロナ… メディアは連日、一日中この話題を取り上げているが、報道する側も人それぞれに違った表現の仕方があり、私たちもそれぞれ独自の感覚で受け止めている。しかし、どうだろう…どんな内容を耳にしても、それに一喜一憂、同調反論、どこかで責任転嫁してはいないだろうか。最大限の自己防御、マスク着用、消毒、人との接触回避…何度も何度も誰もが耳にしてきた誰もができるこの行動が、今は私達を守る一番の手段であること、そしてそれを実行することが自分への、人への思いやり、優しさなのだと云うことを再認識すべきでは。私くらい…、これくらい…、あの人もしてるから…、私は大丈夫…そんな思いの行動は無責任に他ならない。今私達がとるべき責任ある行動、もう一度自身に問い直してみてはどうだろう。
華道専慶流 西阪慶眞
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