日々の暮らしの中で、知らず知らずのうちに誰もが生まれながらにして与えられたはずの、何よりも大切な「純粋な心の目」を自ら無意識の内に曇らせてしまったのでは…と、時折感じ、考えさせられる瞬間に私は出会うことがある。意識の有無に関わらず、生きるために向き合ってきた試練?負荷?が…仕方の無いこと!とどこかで言い訳しながら、否応無く積み重なって行く時間の中で、どんな現実を前にしても、生きる事への慣れとでも言えば良いのか、いつしか喜怒哀楽の感情さえ気づかぬ内に薄れていることに気付き、情けなさと共に、生きるために与えられた大きなエネルギー源を自ら放棄しているように思えるのだ。
何気ない時間の中で目に留まった動画に、思わず笑ってしまった。朝のテレビ番組、あなたも笑いを共有した仲間かも…。生まれて初めてアイスクリームを口にした赤ちゃんの驚いた一瞬の顔、その冷たさに反応して拒否!と思いきや、次の瞬間両手でアイスクリームを鷲掴みし口へ…。見過ごせばただ可愛い動作に笑って終る話しに過ぎないのだが、赤ちゃんにとっては鷲掴みで向かうほど衝撃的、感動的だった味との初めての出会いがそこにあったのだ。冷たい、甘い…の様に私達には当然に思う事も立場が異なれば驚きとなる。私達の人との係わりはどうだろう。出会った頃の緊張感は、付き合いが長くなればなるほど親しみや仲間意識へと変化しながら無くなって行く。ただ、そんな変化に連れ、相手に対して感謝していたことがいつの間にか当然の事になり、「慣れ」からともすると強要へと向かってみたり、時には余りに身近で傍に居るにも関わらず存在すら意識の外に…と云うことはないだろうか…、そういつしか無関心に…。 |
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私達は人の中で生き、生かされてきた様に、自然の中で育み生かされてきた事も忘れてはならない。春、間もなく桜時、様々な花時を迎える。コロナ禍にあり昨年は感染を避けるため伐採されて行く様子を目に胸痛む思いをした。コロナ禍にある現実は変わらないが、そんな災禍の中にあっても、季節は確かに巡り植物は命の営みの先にある開花と言う形で私達に新たな感動を与えてくれる。そう、その感動が一瞬でも心を癒し元気に、細やかでも生きるエネルギーへと繋がって行くのでは無いだろうか。
今年目にする花は近隣の庭先の花も、街路樹も野山に咲く花も、昨年と同じ場所で同じような開花を迎えているように見えても、私達の日々と一緒、決して単調ではない生き延びるのに難しい一年の時の流れの中を生き抜いてようやく迎えた開花、だからこそ新たな感動を与えてくれる。
人との関わりも、植物との関わりも、当たり前に見えて決して当たり前ではない。それぞれの命の営みがそこにあると言う事実を、私達は「慣れ」から見過ごし兼ねない。コロナ禍で命の大切さに向き合う今だからこそなお、全ての命の営みに素直に感謝、感動することの大切さを忘れずにいたい。
華道専慶流 西阪慶眞
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