「今年こそは!」と、過ぎた時を省み、心機一転、新たな年に夢や希望を繋ぐ…、意気揚々とその始まりを迎え、挑んで行く年代はどのくらいまでだろう。気持ちを切り替えて、始まりの時に向かうのは、事の大小、難易はあれ、誰も同じだと思う。ただ、振り返る一年、「アッという間」と感じられるその早さ?が、年々急加速して行くように思える私には、振り返る時を思えば、過ぎ行く時間をいかに大切に過ごすか、新たに挑むのでは無く、更に自身を磨き続けることで、今望む夢?、思い?に向かい、近づくことが出来るのでは…と。これは決して気持ちの後退ではなく、これまで積み重ねてきた、その時々の良くも悪くも過ごしてきた全ての時間が、意味あるものへと繋がって行く過程なのだと思え、心穏やかに前向きに新年をスタート出来る。新年を迎えての思いは人それぞれだが、老若男女、過ぎた時間は誰にも決して戻らない。満足な時も、後悔の時も、もう一度はない。今新たな始まりの時、全ての時間が自分のために与えられた時間、そのように思い今この瞬間を大切に過ごすのも良いのでは。
今、この情報社会の中で、あなたはどの様な手段で情報を得ているだろう。居ながらにして、求める情報を簡単に得られる現代社会に生きる私達は、ともすると、好み、知りたい…と云った個人の欲求をもとに情報を手に入れる為、片寄った物になりかねない。見たいものだけを見る、聞きたいものにだけ耳を貸す、それでは、溢れるその他の膨大な情報を見逃し、大切なものが届かずに終わってしまうことも。その他…は、敢えて知る必要もない…のだろうか。
今は死語?「ながら族」と言う言葉が昔あったが、今私達は慌ただしい日々の中で、様々な動作をしながら、テレビ、ラジオ等 |
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を掛け流し、興味のある内容には手を止め見入る、聞き入る…と云った形で情報を得てはいないだろうか。朝の登校、出勤に向けてはニュースもだか、時間や天気予報をテレビで垣間見ながら、そして、家を出ればまた携帯を手に…。
どうだろう、ボタンひとつで事が運び、用が済んでしまう…様々な分野でのデジタル化が進むに連れて、溢れる情報に反して、私達の選択肢がどんどん少なくなっているように思えるのは私だけだろうか。
以前にも取り上げた、90歳を越える老人が、1日掛けて新聞を隅から隅まで読み、書籍案内を見れば、興味の湧いた本はメモし、後日本屋で購入…。老人にとって新聞は、世界中の出来事、我が国の政治、経済、環境、文化、スポーツ等々、現実を知る情報の宝庫になっているのだ。悲惨なニュースに一喜一憂し、スポーツの結果や選手の努力に感動し、時には一般の人からの何気ない投稿に涙したり…ひとつひとつの記事との出会いに、喜怒哀楽を感じながら、日々届けられる新聞で事の経過はリアルタイムに近く確かに捉えられている。
そう、好みで記事を選ぶのではなく、広告も含め新聞全てに目を通すことで現実社会を知る、そこに喜怒哀楽を感じて過ごすこの老人と、興味あるものを、そして更に深く知るために携帯やパソコン等々で情報を得る現代人?、当然両者を比べることはできない。時間の使い方、関わる日々の現実もまるで違う。ただ、新たな年の始まり、これを機会に視点の先を、たまにはいつもと違った方向へ少し向ければ、新たな発見や思わぬ感動に出会える可能性が広がるのかも…と。コロナ禍で学んだ数々も生かしたい。
華道専慶流 西阪慶眞
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