身近にこんな話がありました。やっと決まった就職、上司にも仲間にも真面目な仕事ぶりは高く評価され、人間関係もうまくいっていたにもかかわらず、突然の上司の呼び出し。「仕事をしばらく休んでほしい」と。その言葉に『何故?…』
その原因は染められた髪が見る人の目に悪印象を与えているという。『黒く染めるならそれで良い』と云う一見単純に済むかと思われたこの話。ところが真面目な青年は、すでにそれなりの評価を受けていたにも係わらず、染めた髪、見かけだけで自分のすべてが否定されてしまった事に納得いかなかったのです。
彼の言い分もわかります。しかしどうでしょう。やはり初対面、まず第一印象が優先されるのは当然。今も昔も同じなのです。
しかし人柄、人格は見かけだけではわからないのです。あらゆる面で、自己表現が自由な現代社会では昔に比べるともっと困難でしょう。彼のこの例もそれぞれの立場から考えれば良否つけがたい難しい問題ではあります。
個性の表現が本当にその人の個性にあった表現となっていれば問題はないのですが、いがいに現代の若者は外見と内面の違いが大きいのではないでしょうか。個性の表現が内面の表現ではなく、内面にないものを外見を装う事で違った自分を表現しようとしているように見受けられてならないのです。
そう考えると第一印象による人物判断は、さらに違ってくる可能性が高くなってくるかも知れません。
新聞の投書コーナー等でも、車中で席を譲ってくれたのは…、重い荷物を持ってくれたのは…、行き交う多くの人込みの中で具合の悪い自分に声をかけてくれたのは…、一見近寄りたくない、話すことさえためらわれるような人達だったと。そして投書の最後は必ずこんな言葉で締めくくられているのです。『人は見かけで判断してはいけないのだと思いました』と。
しかし、一般社会ではやはり初対面における第一印象はその人物の判断材料として大きな意味を持っているのは事実です。話せば、触れればわかりあえる事も、そうした機会が与えられなければそのままの印象で…。
花をいける私達はどうでしょう。出会う人々に自らが与える第一印象。そしていけた花が人の心に与える印象…。そう、花に表現された個性、人柄は大切な自分のもう一つの顔となっているはず。もしかしたら作品に表現された自らの個性に自ら「はっ!」とする事も、違った自分を感じる事も…。
そうです、いけた花は自分の心を映す鏡なのだから(命ある花と)真剣に向かい合っていたいのです。
華道専慶流 西阪慶眞